これからも人間でいたい僕は、怒るのをやめようと思う。/アルボムッレ・スマナサーラ『怒らないこと』
怒りとは何だろうか
怒りは毒である。
怒りは人間の内部から生まれる毒である。
それは例えるならば、火である。
シヴァ神の纏う火は、すべてを燃やし尽くす。
(パズドラの話じゃ、ないんだぜ。)
火は、つまり怒りは、触れるものすべてを燃やし尽くす。
でも、火がものを燃やす前に燃えてしまっているものがある。
それは、火を纏う自分自身だ。
何かを壊す前に必ず、自分が壊れていく。
恐ろしいことである。
(「怒」と「恐」って、カタチ似てるな。当然か。)
そんな怒りをずっと持ち続けてみよう。
物事は思い通りにならないまま、ただ自分だけが壊れていく。
それはだれにも止められない。
怒りを捨て去ることを、自分が選択しない限りは。
怒りの原因は、「我=エゴ」
怒りを生み出すものは何だろうか。
それは、エゴである。
「私」「オレ」という固定概念のことである。
「私は○○だから××しなければならない」
そんな妄想を抱くところから、世の中のすべての問題が生まれると言っても過言ではない、らしい(スマナサーラ曰く)。
私は社長だから、私は親だから、私は年上だから。
そうした無意味な固定概念は、時に予想もしない形で裏切られる(経営について進言した平社員に怒る社長、言うことを聞かない子どもに怒る親、年下の態度に怒る年上)。
これらの怒りはすべて、エゴがなければ存在しなかったはずである。
怒りを捨て去ることは、エゴのしがらみから脱却することに等しい。
ではどうやって、エゴを捨て去ればよいだろうか。
なかなか大胆な方法がある。
エゴを捨てるといっても自分の名前まで忘れてしまう必要はないのです。・・・でもそれ以外は何も持たないと決めてください。たとえば私が「あなたはどなたですか」と聞いたら、「田中です」、それだけで結構です。そうたずねられて、「私は何々、こうこうこういうことで、これだけのものである田中だよ」と言うようであれば、その人はその分だけすごい苦しみを背負っているのです。(p.162)※太字はブログ著者による
ううむ。なかなかだ。
でも、そうしたほうがスッキリするなぁという印象を抱く。
エゴにも、「だんしゃりばんばん」*1なのである。
自分を表明する言葉も、なるべく少なくしたいものである。
「正しい怒り」など存在しない
えー、まじかよ。
仏教によれば、この世に「正しい怒り」など存在しないという。
でもさ。
怒りと立ち向かう、怒りと戦うなど、こうした感情は存在してもいいのではないか。
それもNGだ。
悪を倒すための正義ですら、そこに怒りの感情が芽生えてしまう。
そもそも怒りの感情があるから、わざわざアンパンが空を飛びまわって町中をパトロールしてバイキンを懲らしめる、などという奇怪な光景が生まれるのだ。
(よい子のみんなは真に受けないでね。)
「正しい怒り」など存在しない。
存在してよいのは「間違ったことを冷静に指摘する」ことである。
怒らなくとも、間違ったことを冷静に指摘すればよいだけの話である。
そして指摘された人は、つまらぬエゴに惑わされずに、「指摘してくださってどうもありがとうございます」と受け入れればよいだけの話である。
でもちょっと待てよと。
怒りも、人間のもつ自然な感情表現じゃないのか。
自然な感情を自由に表現して何が悪い。
少なくとも僕はそう思った。
強く、そう思ったのだ。
これに対する仏教の返答はこうである。
怒るとき、我々は瞬時に「完全に最低な無知な人間」になってしまいます。・・・怒る回数が増えれば増えるほど、その人は怒りそのものになってしまいます。それはもう、人間ではなくただの「肉の塊」が動いている状態です。・・・目の前で、人間性を失った怒りの肉の塊が動いたり、歩いたり、しゃべったりしているのは本当に怖いのです。つまり、「怒りの人間になる」ということは、もう人間を捨てたことです。そのあとには、何の成長も何の発展もありません。(pp.88-90)※太字はブログ著者による
うええええ。
怖すぎる。
「怒り」はもう、人間の感情ではないのだね。
ときたま、「あーぁ、人間やめてぇなぁ」と思う僕でさえも、肉塊に成り下がるのはちょっとゴメンだ(生まれ変わるなら、イルカか、セミくらいにしときたい)。
小心者の僕はここで、怒ることを放棄しようかなと真剣に検討するのであった。
おわりに
この本の内容を本当に理解することは、とっても難しい。
もし、何かを「本当に理解する」ということが、「知識を、自らの体験と結び付け、ひとつの知恵として会得する」ことを指すならば。
それほどに「怒り」と向き合うことは、ひとりの人間の全人生を懸けて取り組んでも余りある、終わりのない旅路を行くことが容易に想像できる。
果てしない。
果てしない営みなのだ。
それでも、だからこそ、その一歩を踏み出そうと思う。