想像的な創造のうちにこそ、幸福はある/三木清『人生論ノート』
死、幸福、習慣、嫉妬、成功、偽善、希望、個性などなど。23の議題について、三木の鋭い哲学的洞察が綴られている。
これら小論がはじめて『文学界』に寄稿されたのは昭和13年のこと。今は亡き僕の祖父が、まだ生まれていない昔のことである。
そんな時代に書かれたものが、現代を生きる僕の生活にこれほどの気づきを与えるとは。いやはや、ただただ「すごいなぁ」としか言いようのない(なんてボキャ貧な。三木の流麗な筆致に感化されたいところだが、その読後感に気圧されて何とも陳腐な表現しかできないことを恥じたくなる)。
幸福について
幸福について考えないことは今日の人間の特徴である。(p.15)
古今東西、本当の幸せのかたちを探す旅に人々は魅了されてきた。あるいは、思い悩み、囚われてきたというほうが適当か。
個人的には、そんな旅には実際的な意味はないだろうと思ってはいるし、そうした世間の風潮には些か辟易してきたところでもあるのだが、それでもやはり脳裏をよぎるのは「いかに生きるか」であり「僕にとっての幸せとは何か」であるのだ。今欲しいのは、そうした事柄に対する「答え」ではなく、ひたすらに続く「問い」なのかもしれない。
健全な胃をもっている者が胃の存在を感じないように、幸福である者は幸福について考えないといわれるであろう。しかしながら今日の人間は果して幸福であるために幸福について考えないのであるか。むしろ我々の時代は人々に幸福について考える気力をさえ失わせてしまったほど不幸なのではあるまいか。幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのように感じられるほど今の世の中は不幸に充ちているのではあるまいか。(p.16)
この文章が書かれた当時(昭和初期)の人々がどのような幸福観を抱いていたのかは分からないけれども、三木の眼からすれば当時の人々は、幸福について考えないように見えていた(それが「真に」幸福を考える態度ではないと三木が判断したからかもしれないが)。しかし、それは必ずしも彼(女)らが幸福であるからではなく、幸福について考えることそれ自体を放棄させてしまうほど不幸であるからなのかもしれない。
幸福を知らない者に不幸の何であるかが理解されるであろうか。今日の人間もあらゆる場合にいわば本能的に幸福を求めているに相違ない。(p.16)
そういう観点からすれば、当時の人々も21世紀を生きる僕たちも、そう変わりないのかもしれない。時代に沿ってあらゆる社会制度は変わり、それに伴って人々の価値基準も変わる。しかし根源的なところでは、その時々の個々人にとっての幸福を追求するという本能的性格は変わらないのだろう。
死は観念である、と私は書いた。これに対して生は何であるか。生とは想像である、と私はいおうと思う。(中略)想像的なものは非現実的であるのではなく、却って現実的なものは想像的なものであるのである。現実は私のいう構想力(想像力)の論理*1に従っている。(中略)生が想像的なものであるという意味において幸福も想像的なものであるということができる。(p.19)※太字、下線はブログ著者による
「生とは想像的なものである」ゆえに「幸福とは想像的なものである」――
「想像的」という言葉には、ある種の曖昧さ、不確かさがつきまとうニュアンスがあるが、三木はそれこそが生の味わいを醸し出すスパイスとなると見ているのだろう。それゆえに、空虚な観念をこねくり回すよりも、想像的であることは却って現実的であるのかもしれない。
幸福はつねに外に現れる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である。(p.22)※太字はブログ著者による
「幸福は表現的なものである」――
とても印象的なフレーズだった。ただ頭の中でこねくり回して出来上がった理論としての幸福は、空虚なものである。運動し、活動し、想像的に創造するところから、あふれ出るものが幸福である。幸福は目に見える。実に表現的なしかたで、幸福はその姿を現す。
個性を理解しようと欲する者は無限のこころを知らねばならぬ。無限のこころを知ろうと思う者は愛のこころを知らねばならない。愛とは創造であり、創造とは対象に於て自己を見出すことである。愛する者は自己において自己を否定して対象に於て自己を生かす*2のである。(p.146)※下線はブログ著者による
23の小論それぞれに感銘を受けるところがあった。これらを一度にすべて消化することは、今の僕にはあまりに難しい。そのための経験がまだまだ足りないと突き付けられた。 事あるごと、人生の岐路に立ち会うたびに、本書を読み返したいと強く思った。
【積読リスト】読了数:9/127
*1:三木の未完の著書に『構想力の論理』がある。彼の思想の集大成はここにあったのかもしれない。参考:思想家紹介 三木清 « 京都大学大学院文学研究科・文学部
*2:E・フロム『愛するということ』にも、これに似た洞察があったなぁ