ふたつの「みやこ」
雪国、しかも真冬の最中にこの世に生を受けたためか、寒いのは得意なんでしょう?と言われることも少なくない僕だが、まったくもってそんなことはない。寒い。ああ寒い。
この底冷えの厳しさたるや、故郷のそれを思わせるほど。京都ってなんでまた、夏はうだるように暑く冬は凍えるような寒さに見舞われるのだろう。鳴くのはウグイスだけじゃない。毎朝毎晩、凍えて泣けてくるのはこちとら同じじゃいと、平安遷都に踏み切ったいつぞの帝に訴えたい。
寒さを押し切り今日も街に出る。とはいえ雨模様の空と相談しつつ、近場で済ますことにした。
けっこうお気に入りのカフェである。以前こちらの記事でも紹介した。
【かふぇ探訪】 [CAFE so what?] - 積読本を"昇華"させる日々を綴るブログと化した「日々是好日。」
今日もカフェラテをいただきながら、読み、書く。
ふたつの「みやこ」を舞台に織り成す、比較文化エッセイ
「住めば都」という言葉がある。3年前の春、極寒の冬の時代(受験期とも言う)をブレイクスルーし、あこがれの京都での生活が始まった。期待に胸を膨らませる反面、そこはかとない不安もつきまとう新生活は、たくさんの出会いと出来事とに埋め尽くされて色づけられていった。まさに、住めば都。昔はホンマもんの都であったわけだが、一庶民の僕からしてもここ京都は、とても居心地の良い空間となった。
それがまぁ、ここを離れるという話は何度か書いていることなのだけれども。この春から僕が住むことになる東の都は、ここ西の都とどんな違いがあるのだろう?興味がわいてきた。
「みやことみやこ」ですよ。「みやこときょう」じゃありません。
まずタイトルに目が行く。字面からして「都」の方が東京で「京」の方が京都かな。表紙右上隅に"Tokyo×Kyoto"って書いてあるしなぁ。でもまてよ、絵のほうは左が五重塔で右が東京タワー。名前の配置の流れからして絵の配置、左右逆じゃない?なんでクロスしてんの?とか思ったり。しかしながらこれが、本書でこれから繰り広げられる、東の都と西の都の文化の競演、比較文化論であることを示唆しているのだと・・・読み終えてから気づいたんだけど(真意は分からない)。
生粋の東京人である酒井氏が独特の視点から切り口を入れる東京-京都の比較文化論は、なかなかに新鮮。「大学」の章では東大と京大の、ライバル関係とは言えないまでも何か独特の対立構造だったり、「敬語」の章では、京都人がつかう「~はる」という語尾についての考察を加えたり。他にも「節約」「高所」「宿」「女」などと、興味深い視点からふたつの都への考察をエッセイ調で綴っていく。
とくに面白かったのは「贈答」の章。ちょっと社会学的な概念も垣間見えたので。
東京人にとっての贈答行為が自慰行為のようなものだとしたら、京都人の贈答行為はセックス、ということになるのでしょう。(p.64)
はい?
現在の東京人にとって贈答は、個人的欲求を発散するための一手段となっている。東京人にとって「誰かに何かをあげる」ということは、自らの"あげたい欲求"を発散させるためのレジャー行為で、「贈」した時点でその欲求は充足しているので、別に「答」がなくとも、それほど気にならない。
ほうほう
対して京都人は、奥ゆかしいきめ細やかな対人関係スキルを千年の昔から身体化してきたという歴史がある。京都人にとって贈答は個人的な欲求の発散手段ではなく、他者とのコミュニケーションの重要な一側面を占める。互いに交わす挨拶と同じ感覚で、贈答における相互の綿密なコミュニケーションが取り交わされるのだ。
なるほど
端的に言って、自慰行為よりセックスの方が面倒である。自分の快楽も大切だけれども、相手の充足にもまた最高の配慮を施さなければならない。しかしだからこそ、そうまでして大変な思いをしたその先に、互いが望むものを与え合うことができたならば、それはそれは幸せなことだろうと思われる。
まぁ京都人がそこまで考えてそうしているのかも、地域によってそこまでの違いが出るのかも分からないけれども、たしかに興味深い観点だね。
さて、「贈答」というキーワードは社会学ではどのように捉えられているのか。
「互酬性理論(reciprocity)」というものがある。簡単に言えば「人は他者から何かを与えてもらうと、何かを返したくなってしまう」というところか(いや簡単すぎんよ!)。日常生活でも多分に起こりうることだが、他者から何かを与えてもらってばかりいると、その人に「御恩」や「義理」を感じてしまい、心理的に服従している気持ちになる。これを解消するために人は、与えてもらったものを返そうとする。そうして社会的立場のバランスを取っている。
これを利用する視点に立てば、贈り手は受け手に対してある種の「権力」を手に入れることができるわけだ。
まぁその「与えるもの」が、作りすぎて余っちゃった芋の煮っ転がしだったり、誤って倒しちゃった自転車ドミノを一緒に直してくれたりとか、その程度のことならかわいいもんだけど、これが「お金」「情報」「社会的地位上昇のチャンス」とかだったりすると話は別物になってくる。こうしたものを与えられてばかりいる人間は、与える側の人間のつくりだす権力構造に飲み込まれてしまう。なんとも怖いお話だ。
受け取ってばかりではなく、それを用いて自分は何を与えるのか。自慰的に与えるのではなく、互いの幸せを想って与えることができるか。東京の地でもそれを実行し続けられる人間でありたいと、切に思うのであった。