「オトナの世界」も「ほんとうの自分」も、街に出なきゃわからないのね
もさもさと、わた雪の降りしきる京都の朝。2015年の始まりも大変な大雪だったが、2月の始まりも雪とともに。目を覚ましてすぐに、「そうだ、金閣、行こう。」
京都に住んで早や3年が経とうとしているのにもかかわらず、京都の冬の代名詞である雪化粧の金閣を未だに拝んでいないとは何事か。明日があるさ、来年があるさ、金閣はどこにも逃げやしないさ焼け落ちない限りは、と先延ばしにしていたら、自分が京都を離れることになってしまうという。こうしちゃいられないと、市バス102号に飛び乗る。
雪のおしろいで立派におめかしした金閣は、まさに一見の価値あり。相当寒かったけど。これも感動の代償か。
せっかく早起きして街に出たのだからと、行ってみたかったスポットに足を運ぶ。二条柳馬場にあるコチラのカフェへ。
Cafe Bibliotic Hello! カフェ ビブリオティック ハロー!| Halo Galo ハロー画廊
美味しいカフェラテをいただきながら、今日も積読本を消化、否、昇華するのである("昇華"としたことにあまり意味はない。あえていえば、単なる読了された書物としてではなく、なにかもうひとつ別の次元のものとなって自分に還元されてくれないかなぁ。そういう意味で用いているつもり、ですが本来の正しい遣い方ではなさげです)。
官能的な、あまりに官能的な
独特の大人の雰囲気を醸し出す文体は、作者の人生経験から滲み出てくる"濃さ"を匂わせる。こちとら20代の学生、オトナのカイダンに足を乗っけたばかりじゃ、こんな妖艶でエロティックで情緒に溢れてる、と見せかけてグサリと暴力的でしれっと無機質な世界、わかってたまるか?
ーーと、淡く若々しい反抗心を抱いているからこそ、グイグイ惹きこまれる。いったい、この魅力は何なのだろうか。
山田詠美の作品は今までに『僕は勉強ができない』『風味絶佳』の2つしか読んだことはないけれども、いずれもグワッと惹きこまれる何かがあった。エイミーワールド、おそるべし。それにしても、オトナにしか分からない感情の機微とかを楽しむお付き合い、してみたいなぁ。まだまだ先になるのかな。いつか来るかも分からないそのときのために、エイミーワールドに翻弄される若い今を大切にしたいと思う。
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終わりのない「自分探しの旅」に終止符を打つ
かふぇ・びぶりおてぃっくはろー!を後にした僕は、二条通りを東へと歩を進める。今まで歩いたことのなかったこの道に、京都のもつ落ち着きを感じる。「落ち着いている」―それは包み込むような安心感でもあり、一方で物足りなさでもある。だからこそ、僕の視線の先には東京があるのかもしれない。
そんなことも、実際に京都の街を歩いたことではじめて分かったこと。いつでも、具体的な行動の中にしか「自分」は姿を現さない。部屋に閉じ籠もり書を読み漁ることばかりでは、自分のことなんかいつまでたっても分からない。
かといって、ここではないどこかに「ほんとうの自分」があると盲信し、終わりのない「自分探しの旅」を彷徨うのも、なんか違う気がする。ここではないどこかには、「ほんとうの自分」もいないし、自分がほんとうに愛せるものもないし、自分をほんとうに愛してくれる人もいない。さびしいようだけど、それが現実なのだろうと。
ジンメルによれば、この社会において「あるがままの個性」「あるがままの個人そのもの」などというものは存在しないらしい。人はカテゴリ化された他者の断片的な情報からその人を認識している。それら情報のカケラをつなぎ合わせることでは決して、「あるがままのその人」にはたどり着けない(「自己紹介」を思い浮かべると分かりやすい。「○○県出身、××大学の何年生、趣味は△△で、タイプの異性は~~で」という断片的な情報からしか、結局のところ僕たちは分かりあえていない)。
「あるがままの他者」が分からないのであれば、「あるがままの個人」どうしの付き合いもまた、叶わぬ夢となってしまう。しかしながら往々にして人間は、この世界のどこかに「自分をほんとうに愛し理解してくれる人」「自分を感動させてやまない出来事」「自分を真に活かせる生き方」があるのではないかと錯覚してしまう。そのために空虚な「自分探しの旅」を続けたり、他者との距離感がわからなくなり互いに傷つけ合ったりするのだ。
ただし、ジンメルはこうした「ほんとうの自分を探すこと」や「他者と理解し合うこと」を放棄しているわけではないだろう。ジンメルが提唱した社会理論のひとつに「相互作用論」というものがある。「人間と人間の相互作用が網の目のように張り巡らされることで、社会は形成される」といった感じの理論である。
この理論と、先述した話の流れからすると、ジンメルが言いたいことはたぶん、
「<いま・ここ>で生きなさい。それ以外の時と場所に君が望むものなんてありゃしない。<いま・ここ>で他者と関係を築いていくうちに、結果的に、君自身がそれを知ることになるだろう。」
ということになるのだろうか。
今じゃそこらじゅうで耳にする<いま・ここ>で生きる、なんてワードも、身に付いてなけりゃ何の意味もない。そう気づかせてくれるのも、書を捨て街に出た自分と、立ち止まって書に帰った自分の、<いま・ここ>での行動と思考なんだろうなぁ。