〈子ども〉になれない僕(ら)の強がりをひとつ聞いてくれ
小学5年生の男たち(アホの集まり)には「ベリーメロン」くらいが面白いほどハマったものだった。
〈子ども〉の哲学
「ベリーメロン」くらいで心底笑えていた当時の僕は、「哲学」の「て」の字も知らなかった。
しかしながら、〈哲学〉については、自らの全存在を懸けてぶつかっていたのかもしれない。もう覚えてないけど。
ソクラテス、プラトン、デカルト、カント、ハイデガー、ヴィトゲンシュタイン――以降、綿々と続く西洋哲学史上の言説・思想を学び、理解する。これが一般的な「哲学」に対するイメージかと思う。
しかしながら永井氏が追究するのは、こうした「哲学」ではない。
彼が問題にするのは、この世界の成り立ちや前提に対して根本からの疑問を提起する、〈子ども〉の抱える問いである。
〈子ども〉であるかどうかに、年齢は関係ない。人間存在、世界の成り立ちの根本に疑問を抱く姿勢こそが、〈子ども〉であることの条件だ。
〈子ども〉の問い。これを〈哲学〉と呼ぼう。
「なぜぼくは存在するのか」「なぜ悪いことはしてはいけないのか」「なぜ人を殺してはいけないのか」
こうした問いに、大人は答えることができない。
それら〈子ども〉の問いは、大人たちがこれまで騙し騙しやりながら上手いこと回ってきたこの世界の前提を覆してしまうからだ。
〈子ども〉は大人にとって脅威である。ゆえに大人は、子どもがこの世界の前提のおかしさに気づかないよう育て上げる。その結果、ソクラテスが言うところの「無知の知」に気づかない子どもたちが、大人になっていって、またその子どもたちは同じように大人になっていって、、、いまがあるわけだ。
〈子ども〉の哲学と、僕の「生」
僕はまだハタチのぺーぺーで、法律上では大人だけど社会的に見れば子どもなんかもしれない。
でも、〈哲学〉をする者の視点からすれば(永井氏から見れば)、いまの僕は〈子ども〉ではない。大人のつくった世界の構造に取り込まれ、その中でしかものを考えられなくなってしまった、青年である。
青年の哲学の根本課題は、人生である。つまり、生き方の問題だ。いかに生きるべきか――このひとことに青年の問いは要約される。(中略)青年は、現実を越えた別の価値を求めるが、価値を求めるというそのこと自体を、問題にすることはできない。青年とは大人の予備軍であり、その超越性とラディカリズムは、見せかけのものにすぎない。(p.24)
ああ。なんか、言われるがままだ。
そう僕は、いろんなかたちを取れども、「いかに生きるべきか」ということでずーっと考えている。
ただそれは、「いまここにある、この〈ぼく〉」を抜きにしてしまっている。根本的な意味で。
そのような思索には、現実がすっかり抜け落ちている。空虚な価値を追い求めるところに〈哲学〉はない。〈哲学〉のないところで生きていても、え、それって意味あるの・・・
こらこら。また悪い癖が顔をだす。生きることに意味なんて求めてんじゃないよ。
永井氏のいう〈哲学〉は永井氏にとっての〈哲学〉であって、僕には僕にとっての〈哲学〉がある、はずだ。誰しもに考え抜きたいことがあってよいのだ。なくても、よいのだ。
ただ、各々にとっての〈哲学〉の対象があるとするならば、それをとことん追究していくところに、その人の「生」があるのだろう、ってことだ。そこに意味なんて付与できるだろうか。ただ、そういう「生」がある、ということ。それだけでいいんじゃないか。意味が欲しかったら、自分だけの意味を見出せばいいのだ。他人に、社会に、世界に、意味なんて見出してもらわなくてもいいのだ。この〈ぼく〉の「生」は、そのまま、〈ぼく〉だけのものなのだから。
最後のページをぱたんと閉じた。
〈子ども〉になれない僕の強がりだけが、ひとつ、そこにはあった。