つなろぐ。

日々を綴る。

「ひこうき雲」と散髪とカフェと読書と

こんばんは。

本日の1曲


ひこうき雲/荒井由実(Cover) - YouTube

昨日のエントリ(2月12日 - 日々是好日。 )でユーミンバーについて書いているときからずーっと聴いています。Goose house もめっちゃ好きなアーティストなんですが、その中でもこれはビビっときました。。。

左から、汀(みぎわ)さん、さやかさん、わっしゅうなんですけど、この3人のハモり具合でアレンジ加えた「ひこうき雲」もなかなか感動モノです。もちろん、原曲がとっても素晴らしいというのもありますけどね!『風立ちぬ』のエンディングでこの曲が流れてきたときはホントに目頭熱くなりました。ぜひ、原曲も Goose house のカバーも聴いてみてください。

 

すっきり散髪からのカフェ

お昼から散髪へ。1か月半ほど切ってなかったらしく、短いのが好きな自分にしては頑張って伸ばしてたなーと。バスケするときにさすがに邪魔なんですよね。

いつものように3ミリでガッツリのツーブロにしてもらいました。すっきり。

(全然どうでもいい余談なんですけど、「髪を切りに行く」って言葉はすこし誤りに聞こえますよね。正確には「髪を切ってもらいに行く」みたいな。「have my hair cut」みたいな。まぁ日本に住んでるんだから通じるしいいんだけど。受験期からそれが気になっちゃったりするんで「散髪」って言うことにしてます、ハイどうでもいい。)

散髪し終わった後はサークルバスケの時間までカフェ飯。今日は家のすぐ近くのカフェ「ZACO」へ。

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 こげ茶で落ち着いた雰囲気の店内。御主人と奥さんで経営してらっしゃる、ゆるゆるな喫茶店です。京都に住み始めて2年になりますが、長らく通わせてもらっている場所です。居心地よろし。

 

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ライ麦パンのミックスサンドとガーリックトースト。コーヒーセットでついて900円。料理がお上手なんでメニューは色々あるんですが、いつもこれを頼んじゃいます。ここで軽めに食事したら、コーヒー飲みながら読書するのがいつもの流れ。

 

本日の1冊

写真にも見えますが今日読んでいたのは、丸山真男『日本の思想』。 

日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)

 

 この春休みは人文・社会科学系の評論をゴリゴリ読んでいこうかなっていうのが目標なんで、先輩におすすめされた本書を読んでいます。

第1章「日本の思想」、第2章「近代日本の思想と文学」についてはあまり深く読み込めなかったので感想については割愛します。基礎的な知識不足ね。不勉強だなぁ...もっと勉強しねけばなんねね。

第3章「思想のあり方について」、第4章「『である』ことと『する』こと」は、著者の講演をもとにしたもので、かみ砕いて論じてあるので比較的易しい印象を受けました。

 

第3章は、「我々は、独り歩きするイメージだけを頼りに現実を認識しがちである」という問題提起から始まります。その後、「タコツボ化」した組織集団と「ササラ型」組織集団の二項対立から、思想のありかたについて迫ります。社会で起こっている事象モンタージュ的に組み合わせることで、全体ではどのような状況になっているのかを把握できる鳥瞰図を作ることが要求されていると、著者は述べます。

何についてもそうですが、社会で起こっている事象の姿って、マスメディアに代表される「他者」のつくり上げたイメージによって左右されるところが大きいですよね。さらに、そのイメージ自体が現実をつくり上げていくという奇妙な事態も生じているのです。そうしていたら、「これだけがただ一つの真理で、あとはみーんなイメージの作った幻想だ!」などと言って、真理(とされているもの)の上にあぐらをかいている余裕もないわけです。幻想が現実を追い抜く事態は頻繁に起こってきている。

だから、真理・原則(とされていること)から個々の事象を説明する、いわば演繹的手段ではなく、その事象がイメージの作りだした幻想なのか或いは現実なのかを、多様な価値観間の相互連絡を用いながら吟味していくという帰納的態度が必要なのだと感じました。

 

第4章の「『である』ことと『する』こと」は、中学だか高校だかの国語の教科書にも掲載されたことがあるらしく、どんなもんなんか以前から興味を抱いていました。

冒頭、日本国憲法のハナシから入るんですが、心に突き刺さります。

たとえば、日本国憲法の第十二条を開いてみましょう。そこには「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」と記されてあります。(中略)つまり、この憲法規定を若干読みかえてみますと、「国民はいまや主権者となった、しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目ざめてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起るぞ」という警告になっているわけなのです。(pp.154-155)※原文傍点箇所を下線に。

 僕らは普段、「民主的な」国家で生活し、憲法の保障する「自由」を享受しているわけですが、その権利に甘んじているだけで現実の行使が伴わなければ、真に「自由である」とは言い切れない状況にいます。「権利の上にねむる者」であっては、本当に「自由」たりうる権利を享受できない。具体的な行動の必要性を説く主張に、思わずハッとさせられました。

とはいえ、何でもかんでも「である」主義から「する」主義への価値転換を勧めているわけでもないようです。学問や芸術の創造活動については「成果主義ではなく、それ自体がそれ自体であることが大切」と説いています。

政治はどこまでも「果実」によって判定されなければなりません。政治家や企業家、とくに現代の政治家にとって「無為」は価値でなく、むしろ「無能」と連結されても仕方のない言葉になっています。(中略)しかしながら、こういう文化的な精神活動では、休止とは必ずしも怠惰ではない。そこではしばしば「休止」がちょうど音楽における休止符のように、それ自体「生きた」意味をもっています。ですから、この世界で瞑想や静閑がむかしから尊ばれてきたのには、それだけの根拠があり、必ずしもそれを時代おくれの考え方とはいえないと思います。文化的創造にとっては、ただ前へ前へと進むとか、不断に忙しく働いているということよりも、価値の蓄積ということがなにより大事だからです。(pp.178-179) ※原文傍点箇所を下線に。

音楽における「休止符」なんかで形容されたら、教養や芸術の存在意義もなんとなく感じられてきますね…丸山真男の文章力というか表現の豊かさに惹かれました。

身近な例で思ったのが、子どもの「なんで勉強するの?意味あるの?」っていう疑問。実学志向になり、勉強することの対価をビジネスマインドで考えるようになった現代の子どもたちは、こういう「休止符」としての勉強の位置づけを理解することすら難しいのかもしれません。ま、僕ら若者・大学生も中身は子どもみたいなもんですけど。

そんなときに、「今は意味が分からないかもしれないね。ガンガン前進したい君には申し訳ない。しかしながら、この小休止の学問が血となり肉となり、そのすべてが君という存在をつくりあげているんだよ。」なんて言ってくれるオジサン先生がいれば素敵だなと思う。(実際いましたが。僕の高校の国語の恩師です。)

 

「学び」をビジネスマインドで捉えるようになってしまった現代の子どもたち

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

 

 

 

そんなことも思ったりしながら、カフェを後にしてバスケをし、帰宅してこのブログを書いているというところです。

なんだか、日記とカフェと書評とがごっちゃになってクッソ読みづらいですね(笑)書いているうちに終着点が自分でもわからなくなってるやーつ。まぁその方が自分でも気づかなかった想いが生まれてきて面白いんですが、読んでいただいている方々には申し訳ないですよね。。今度からこまめに分けて書いてみます。

 

お読みいただきありがとうございました。

おしまい