つなろぐ。

日々を綴る。

【本日の1曲】 「口がすべって」 - Mr.Children


Mr.Children 口がすべって - YouTube

実に示唆に富んだ曲。

僕の大好きなフレーズが散りばめられています。

 

口がすべって君を怒らせた

でも間違ってないから謝りたくなかった

分かってる それが悪いとこ

それが僕の悪いとこ

 「ゆずれぬものが僕にもある」だなんて

だれも奪いに来ないのに鍵かけて守ってる

分かってる 本当は弱いことを

それを認められないことも

自分の悪いところ、弱いところ、それらを認められないことを分かっている「僕」。

分かっちゃいるんだけど、素直になれない。だから、認められない。 

譲れないものがある、と自分にプライドを持つことは素晴らしいこと。

しかしそれは時に、世間体を保つためだけの嘘で塗り固めた鎧にしかならない。

その鎧に縛られて身動きが取れなくなっている。

そういうのはある意味、「自意識過剰」なのではないかな。

君が思ってるほど他人は君のこと、見てないから。気にしすぎなくていいよ(笑)

 

思い通りに動かない君という物体を

なだめすかして 甘い言葉かけて 持ち上げていく

もう一人の僕がその姿を見て嘆いてるんだよ

育んできたのは「優しさ」だけじゃないから。。。

争い続ける 血が流れている

民族をめぐる紛争を 新聞は報じてる

分かってる 「難しいですね」で

片付くほど簡単じゃないことも

他人の心なんて、本当のところは分かりっこない。

その事実だって、痛いほど分かってる。 

それなのに、自分とは違う生き物の「君」を動かそうと躍起になっている。

本当はそんなご機嫌取りなんてしたくないんだろう。「僕」も「君」も自由に生きたいんだろう。

そう言って、もう一人の僕は嘆いている。

「優しさ」と括弧つきになっているのがいいね。

他人におもねって、ご機嫌を取って、世間を味方につけたつもりになって。

そんなのが本当の優しさだろうか?それが本当に「和」を重んじているといえるのだろうか?

…たぶん違うよね、きっと。そういう「僕」の主張が聞こえてくる、大好きな一節です。

 

誰もがみんな大事なものを抱きしめてる

人それぞれの価値観 幸せ 生き方がある

「他人の気持ちになって考えろ」と言われてはきたけど

想像を超えて 心は理解しがたいもの

他人をすべて理解しきるのは不可能に近いけど、

それでも、「人それぞれの価値観、幸せ、生き方がある」って事実を認めるんだっていう、そういう不断の努力が大切だよね。

 

流れ星が消える 瞬く間に消える

今度同じチャンスがきたら

自分以外の誰かのために

願い事をしよう

奇跡とでも思えるような好機が降りかかってきたとき、

それを他人のために遣おうと思えるだろうか?

僕はまだまだ、そこまで人間ができてない。自分のために遣っちゃう。

いや、でも、自分に投資し続けるのは大切なことだ。 

他人を幸せにするのは、自分が幸せになってからだろう。

 

それでも、「自分は満たされてるから、この好機をあなたにあげますよ」って、

遠慮なく、見栄も張らず、晴れ晴れと言える人間になりたいもんです。

 

口がすべって君を怒らせた

でもいつの間にやら また笑って暮らしてる

分かったろう

僕らは許しあう力も持って産まれてるよ

ひとまず そういうことにしておこう

それが人間の良いとこ

と、いうわけで、

人間は、お互いを許しあうことができる。

人間は、お互いを認めあうことができる。

それを「知っている」だけで十分。おーるはっぴー。

 

てな人間賛歌的なところに行きつくわけですね。

個人的には大好きな歌です。

今日はこれを聴きながら梅田へ。大切な友人たちに会いに行きます。

 

お読みいただきありがとうございました。

おしまい

漢字検定を受けてきた話

お久しぶりです。

 

漢字検定を受けてきた

6月22日に、平成26年度第1回目の漢字検定試験を受けてきました。

受検級は準1級。

今年の正月に一念発起して勉強し始めたらこれが意外と面白い。近代の小説とか評論文とかによく出てくる漢字や言い回しの表現ってのは案外知らないもんで。新たな学びの連続で、漢検の勉強にハマってました。

 

…「ハマってました」って過去形なのは、途中で放ってしまったからなんですね。なんか続ける気力がなくなったというか。2か月で参考書を一通りやり終えて、緊張の糸がぷっつり切れてしまいました。

そういうわけで、4か月放置した状態のまま受検日を迎えました。ザ・記念受検。

 

受検当日

準1級の受検者の年齢層は他の級に比べて高めかと思います。大学生くらいから主婦の方とか、上は60、70代のおじいちゃんとかいました。生涯学習感バチバチ伝わってきましたね。個人的には未就学児の時点で準1級とか受けに来てる猛者がいないかなぁと期待してたんですが、小学生はおろか中高生っぽい子はそれほど見かけませんでした。

実際に受けてみると、まぁ、うろ覚えの連続でした。もどかしい思いを抱えながらパッパと書いて次々に進んでいきます。

試験時間は60分。読み書き等合わせて130問。あんまり悩んでる暇はないです。サクサク進めて見直しが5~10分残るくらい。

1・準1・2級は、200点満点のうち、80%程度の正解率で合格です。160点程度は欲しいところです。

終始、うろ覚えの記憶の奥底に揺蕩う漢字たちを引っ張り上げてきて何とか解答欄を埋める作業と化していました。日常生活でよく聞く言い回しとかも結構あるので、常識の範囲内といえる問題もあることにはあります。そこの得点をせっせとかき集める作業。

 

自己採点

公式の採点結果は1か月後に届きますが、自己採点用の模範解答が届いたので早速やってみました。

結果、143点。これは....

うん、この4か月間みっちり勉強してたらおそらく8割は届いてたんじゃないかと(笑)

なんか今回の結果を受けて、自分、もうちょい頑張らんきゃいけないと思ったのは、「何かに対してコツコツと継続して取り組むこと」ですね。

何でもいいんですけど、ほんと何に対してでもいいんですけど、継続して取り組むってスキルは絶対必要で。汎用性ありますしね。何をするにしても重要かと。

モチベーションを保ちながら物事に継続して取り組むにあたって、テクニック的なところはたしかに必要かもしれません。ToDoリストとかPDCAサイクルとか、ストレス解消法とか。

ただそれ以上に、心の底からその課題を面白く思えるか、というところが何より重要かと。その大前提がしっかりしていれば、「モチベーションをつくる」なんて必要性が無いわけですから。

せっかく一度は面白いと思えた漢字の勉強。新たな知識の獲得の喜びを与えてくれる課題なわけですから、こういう機会は大事にしてあげたいものです。

ということで、次回検定日(10/26)に向けてもっかい勉強していきたいと思います。

楽しむでーい。

 

お読みいただきありがとうございました。

おしまい

『嫌われる勇気』の岸見一郎先生と話して考えたこと

とあるシンポジウムに参加してきました。

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『嫌われる勇気』著者の岸見一郎先生をはじめ、各方面で活躍されているオトナのみなさんを招いて、生き方について考えてみようって感じでした。

 

「ほほぉ~」と思ったこと

岸見:2006年に心筋梗塞を患い、生死の境をさまよう。そのとき、「何かに所属していたり何かを得たりすることによる幸せには意味が無いこと」を身をもって実感した。命を引き取る瞬間に「生きてて良かったなぁ」と思える、まさにそのことだけが大切。「いま、ここにあること」それこそが幸せである、その事実を知ることが重要。

 

伊藤:起業家支援事業などをやっているが、ライバルはきゃりーぱみゅぱみゅ。彼女のライブチケットの10倍の値段でセミナーをやるならば、彼女の10倍は価値あるものを届けなければならない。そう考えるとどこまでも精進していける。

また、自身も病気を患ったり知人の死を経験したりして、「人生ってそんなに長くないのかも」という想いが心に刻まれた。そのときから、「やりたいことをやり、自分らしく生きる」生き方を徹底的にやっている。

 

松原:学生時代に親の会社が倒産。それまでの暮らしが一変し、何もない状態に。「人生ってこんなにも変わってしまうんだ」という経験をする。その経験から、所有ではなく存在にもとづく幸せを目指す生き方をはじめる。

 

みなさんそれぞれ色んな人生経験をされていてもっと話を聴きたかったんですが、けっこう時間が短かったのでちょっと物足りなかった感がありますね。

 

 

今思うことを岸見先生に聞いてみた 

講演が終わり登壇者の方々と自由に懇談する時間があったので、とりあえず岸見先生にお話を伺うことに。ちゃっかりサインもらっちゃった。

最近気になってたことを先生に伺う。

 

「ワーカホリック(仕事中毒)の人も、見方によってはダンスするように生きているのではないか?その人が "いま、ここ" を充実させていると感じていれば、それでいいのではないか?」

 

ここで、「ダンスするように生きる」というのは、簡単に言えば「"いま、ここ"を踊るように生き、それが充実してさえいればいい」とする生き方のことです。

『嫌われる勇気』を参考に説明を加えると、

人生におけるゴールを定め、逆算して生きるのが「キーネーシス的(動的)な人生」

これに対し、今この瞬間、連続する刹那を踊るように生きていくのが「エネルゲイア的(現実活動的)な人生」と呼べます。

 

 

で、先ほどの問いに対する返答ですが、

まず、ワーカホリックの人は「人生の調和を欠いている」とのことです。仕事が忙しくて家庭にも趣味にも時間が取れない、というのは、仕事を口実にして人生における他の責任を回避しようとしていることの表れである、と。家庭のことも趣味のことも、すべてが人生を構成するピースの欠片であり、それぞれに関心を寄せるべきである。会社が人生のすべてではない、と。

では実際の例をひいてみましょう。年収ウン千万円を稼いで出世しようとする人は、家族と晩御飯を食べている場合じゃありません。逆に、毎日家族と晩御飯を食べようとする人は、出世コースからは遠ざかってしまいがちです。これが現代日本社会の現実です。やはりバランスを取るのはなかなか難しいことのようです。

結局、当人がその生き方で真に充実できているのかどうか、というところに尽きるのではないでしょうか。稼ぎまくってるけど心は満たされてないとか、家族と触れ合えてるけど稼ぎがまったく足りないとか。人生の調和の不均衡を不快に感じるところがあるのなら、そこを解決していくしかないのかなって。

 

岸見先生と話して考えた、僕のやりたいこと

ちなみに岸見先生は、毎日家族と晩御飯を食べる生き方を選択したようです。それが幸せだったからそうしたのだと。しかしながら、今の日本社会ではそうした生き方はあまり主流ではありません。どうしても仕事一辺倒になってしまったり、出産とキャリアを天秤にかけてどちらかを諦めなくてはいけなかったり。

しかし、理想論を語っているだけでは現実は変わらない。実際に行動し、望む生き方を叶えている人は現に存在する。君たちのような若い世代が新しい価値観を世に伝えていってほしい。このような励ましのお言葉も頂きました。

 

ここからは僕自身の話になりますが、僕はそういう、仕事と家庭のどちらかを選ばなきゃいけないような社会の在り方を変えていきたい。

人生における「ワーク」と「ライフ」のバランスを、各個人が主体的にデザインしていける社会。それがこれからの生き方のスタンダードになるようにしていきたい。

 

最近は、「ワーク・ライフバランス(WLB)」とか「ワーク・ライフシナジー」という言葉を耳にする機会が多いのではないでしょうか。仕事・家庭・自分自身につかう時間のバランスを改善していこうという趣旨の考え方です。

ところが、ここで言うWLBとは、単に「仕事と家庭と趣味につかう時間をバランスよく配分しましょう」というだけのことではありません。

実際には、「最も充実した生き方を実現するため、各個人がライフスタイルを主体的にデザインすること」を指しています。

 

例えば、プログラミングが好きで一日中PCをいじいじしていたいSEの人に対して、「ワークライフバランスしましょうね。5時には退社しましょうね。」なんて言うのは、全っ然違う。

その人がプログラミングしたいのなら、思う存分やってもらえばいい。その上で、会社での仕事以外に充実させたいことがあればそれを叶えられるような制度を、社内・社外でつくっていく。

そして、大人がこうした自由な生き方を実現できるようになってくると、その幸せは子どもにも伝わります。大人たちが自分の生き方に誇りを持っていて、幸せを感じながら生きていれば、自ずと子どもたちにも幸せは伝わるでしょう。また、育児や教育により多くの時間を遣えるようになれば、子どもたちの可能性はもっと広がります。最終的にはこのへんまでカバーできたらいいかなってのが、今思うところです。

 

 

最後は長々自分の話になってしまいましたが。

これまで大学生やってきたなかで、上のことを考えるときが一番ワクワクしている。

まだまだ少ない人生経験のなかでたまたま出会ったことだけど、今という時間を注ぐには十分すぎるほど楽しいことだと思う。

とりあえず、本やネットで勉強して知識を身につけるとともに、色んな人に会ってどんどん話をして構想を練り上げていきたい。あとは、文章を書きあげてみたり活動に参加したりしてみて、アウトプットしていくことかな。それが今やりたいこと。

 

岸見先生から頂いたサインには「いま、ここを真剣に生きる」とありました。

まさにその通りだと思います。いま、ここを生きるのみ。

 

お読みいただきありがとうございました。

おしまい

ホタルノヒカリ

こないだ、哲学の道に蛍を見に行きました。

 

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※ネット上にあった哲学の道の蛍の写真をお借りしました。

 

雨上がりのムッとした湿り気。蛍が好みそうな気候。

目撃情報ではけっこうな数の蛍が群れて飛んでいるとのことでしたが、残念ながらその日は群れても2,3匹程度。思ったほど飛んでなかったです。

けどまぁやっぱり、趣があるというか風情があるというか。この儚さがなんともいい。

哲学の道には野生のゲンジボタルが生息しています。

ゆったりした間隔の明滅を眺めていると、時の流れもゆっくりに感じます。

 

 

こういう、儚いものに触れていると、なんとなく「いのち」と結び付けたくなってしまいます。

亡くなった人の魂が、蛍の光となって、僕たちの前に姿を見せてくれてるんじゃないかな、とか。

 

 

ところで、蛍を見に行ったこの日。

僕の大切な友人夫婦に、第一子が誕生しました。

それはそれは幸せそうでした。

その知らせを聞いて、そして蛍を見に行って。

「あぁ、こうしていのちはつながっていくんだな。」と感じました。

 

 

誰かの誕生日は、何気ない一日でありながら、最高に幸せな一日である。

最近そんなことをずっと考えていた。

蛍の光ひとつとっても、感じることは昔と比べて全然違う。

 

 

お読みいただきありがとうございました。

おしまい

誕生日に幸せを感じる理由

単純に考えて、「感謝」ではなかろうかと。

 

誕生日には、たくさんの人がお祝いのメッセージをくださいます。

そのひとつひとつに、「ありがとう」で返します。

これだけで、幸せになれてるんじゃないかな、と。

 

普段、ここまで「ありがとう」を意識することなんて、めったにないですよね。

今はSNSが発達しているから、友だちの誕生日とかすぐに把握できる。「おめでとう」をすぐに伝えられる。その簡便さも手伝って、多くの祝意がひとりの元へと集まりやすくなっている。

それらひとつひとつの「おめでとう」に対し、ひとつひとつ「ありがとう」で返していく。

その行為自体は単純かもしれないけれど、効果は絶大です。

感謝の意を言葉にしていく。その気持ちが伝わっていく先は、相手だけではありません。他ならぬ自分に対しても、「ありがとう」の気持ちは伝わっていきます。

 

ここまでともに生きてくれてありがとう。

みんなに出会わせてくれてありがとう。

こんなに幸せな日を生きてくれてありがとう。

 

忘れちゃいけない、自分に感謝する日でもあるよね、誕生日。

 

 

 

もちろん、ここまで生かしてくれたすべての人と出来事に感謝する日でもあります。

自分がこの世に生を受けたのは、ありとあらゆる偶然が重なった奇跡であるわけですから。

命のバトンをここまで繋いできてくれた親と家族には、大いに感謝したい。

 

まぁでもそれって、「誕生日だから感謝する」っていう理屈ではありませんよね。

誕生日は、日頃感謝すべきものに気付かせてくれる契機としての役割を果たしています。それ自体は何でもない日常の一コマにすぎません。数多くの「おめでとう」と「ありがとう」によって、何でもない日常の幸せが成り立っている。それに気づいてこそ誕生日のありがたみが分かるのではないでしょうか。

 

 

「へっ、俺には誕生日を祝ってくれる人なんていねぇよ。」

そういう人もいるかもしれませんね。

ただ、幸せを感じるために、絶対に「祝われる」ことが必要であるとは限りません。

「おめでとう」と言ってもらえた、だから「ありがとう」と言った。

これでは、「誰かに何かをしてもらわなければ幸せに成り得ない」人生の始まりです。

そうではなくて、自分から感謝の意を表現したからこそ祝ってもらえたり受け容れてもらえたりするのだと。そういう風にとらえ直すことで、感じる幸せの質も量も変わってくると思います。

 

最近、身近な人の誕生日が続いたので、思ったことを書いてみました。

Facebookを眺めていると、知り合いの誕生日がずら~っと流れてきますね。

それぞれにとっては特別な一日かもしれない。けれど、世間、一般人から見れば何でもない一日。そう考えたら、誕生日なんて1年365日あるうちの何でもない一日です。

その何でもない一日をこれほどまでに幸せに過ごすことができるのは、たくさんの「ありがとう」に囲まれているから。何でもない一日でそれができるなら、残りの364日も「ありがとう」に囲まれた幸せな一日にできるはず、だよね。

 

 

お読みいただきありがとうございました。

おしまい

表現しない自由

はじめに(実話)

とある講義にて、とある教授は言った。

「学問の世界において、誰かが発表したことにたいして質問や意見、果ては感想すらないなどということは、大変な失礼に当たります。かならず何かしらの発言ができるように、注意して聴き、考えなさい。」

 

別の講義にて、別の教授は言った。

「僕は、学生に強制的に発言させるような授業はしたくありません。誰かに指名して必ず答えさせるなんてもってのほかです。自発的に抱いた意見を発言し議論することが生きた空間を創りだします。ここでは言わない方がいいかな...と迷ったら、発言しないのもまた自由です。」

 

後者の教授は、これを「表現の自由」の中に含まれる「表現しない自由」であると説いた。

 

表現しない自由

近頃、SNSやらブログやら各種ニュースアプリやらを利用する中で、なんというか、「発信することを促されている感」を否めない。発信を急かされている。ほらほらみんなもやってるよ、君も自分を表現しようじゃないか!、、、と。

たしかに、発信することで得られるメリットってのはかなりたくさんある。それは十二分に認めている。

インプットを確実なものにするためのアウトプットの役割。

自分の考え・信念なんかを掘り下げていくための、自分磨きのような側面。

発信に対して何らかの反応が返ってくる。自己充足ツールとしての側面もある。

発信するってことで自分の生が潤ってくるというのは、まぁ実感するところが大きい。そのため僕自身も、発信することで大いに救われているのは事実だ。

 

しかしながら、インターネットの海に浮かぶSNSという島々を渡り歩いていると、ひしひしと感じずにはいられない。数々の文面から滲み出てくる「発信セヨ」という無言のメッセージを。これ、見方によっちゃあ、「圧力」なんだよね。重圧です。そう思ってる人、たくさんいるはずです。

 

Facebookなんか、特にそうだよね。「たまには少しマジメなことでも書いてみっか。お洒落な写真も添えて。」とさせる、あの独特の雰囲気。これがもう少し進行しちゃうと、日々自分の思うこと・信念をガッツリ書き上げて発信しまくる人が出てくる。

いや、そういう「発信しまくる人」「表現しまくる人」を非難しているのではないよ。むしろ、彼ら彼女らが発信してくれるメッセージに励まされることも多い。自分を表現する人たち、とっても素敵だ。

 

だけど思うのは、無理して発信したり表現したりする必要はないってこと。タイトルの「表現しない自由」ってのはそういう意味。

 

「本当にやりたいこと」だったら発信しても恥ずかしくない、、、?

けども、これまた言う人は言ってくる。

「君が自分のメッセージを発信しないのは、自分に自信がないからだ!本当にこれがやりたいんです!って口先では言ってるけど、それは嘘なんだ!本当にやりたいことなら、Facebookで発信しようが何しようが恥ずかしくない!今ある人間関係を壊したくないだって?本当の君を表現するのに居心地が悪いコミュニティなんて無くても一緒さ!むしろ無い方がいい!本当の君のメッセージを訴えたときに嘲笑する人たちなんて、そこまでの付き合いだったのさ!さぁ、怖がることはない!発信し、表現するのだ!発信し、表現するのだ!発信セヨ、表現セヨ、、、」

はぁ。自分で書いてて怖くなってくる。本気でこういう風に考えてる人いるからなぁ。

 

「本当にやりたいこと」だったら発信しても恥ずかしくない、なんてことがあるのだろうか。「自分が本心では思ってること」を表現しても全然不安じゃない、なんてことがあるのだろうか。

結論から言えば、できる人はできる。できない人はできない。ただそれだけだ。

ただそれだけのことなのに、なんで「一億総発信者化」に諸手を挙げてバンザイみたいな風潮になるのか。ネット利用者全体に言ってることじゃないよ、ほんの一部の過激派の方々に向けて。

 

「本当は思ってることあるけど、SNSでいきなり発信していくなんて無理だよ...これで発信したら周りのみんなどう思うんだろう...こんなことでビクビクしている自分はまた、"自己愛が足りない"とか言われちゃうんじゃないだろうか...」

こんなことになっちゃうでしょうが。かわいそうに。

だから、表現することにそんな無理する必要なんてないじゃん。表現する方法と場所なんて、いくらでもあるんだし。本当に小さなことでもいいから、自分だけが分かるような小さな範囲でもいいから、あなたが思うことをやっていくことは間違ってないんだよ。って、それだけでいいじゃん。それで少しずつ自分に自信ができて、自分を好きになれた人が、自分を表現していけばいいんじゃないの。

 

僕自身のはなし

じゃあテメエ自身はどうなんだって話なんだけど。

僕は、いま付き合ってる友人も、セミナーとか旅とかFacebookで出会った人たちとも、みんなと仲良くありたい。単純にそう思う。欲張り野郎なんだわ。

正直な話、普段付き合う友だちとFacebookで繋がってる友達との間には、見えない壁があって、なんだか違った雰囲気が流れている、そんな感じ。

でも、どちらの集団にいても、そこに身を投じるときには居心地が悪くないんだな。それぞれのコミュニティで自分が一番生きやすい自然体の状態で、素の状態でいられるから。それぞれのコミュニティの人たちが、僕にそうさせてくれるから。

普段の友だちに見せている顔、普段の友だちと付き合うときに考えていること、Facebook上で繋がっている人たちに見せている顔(言い換えれば、Facebook上での僕の投稿)、その人たちとリアルで会うときに考えていること。

全部、僕なのであって。僕がそうしたくてそうやってる。んで、それが一番生きやすい状態にある。それならそれでいいじゃんね。

 

案外、自分の性格は「その場のノリに合わせて飄々と生き抜くのが上手い」というのが適当かもしれない。こういう書き方するとネガティブに読めるかもしれないけど、別にいいよね。それが自分だし。それで自分が楽しくて、みんなに楽しんでもらえれば。

そういう素の自分を一番よく分かってるのは、周りのみんなだ。そんなことは全部お見通しのうえで、僕と付き合ってくれてる。だから僕も素直にいられるし、素直な僕を出してもみんな向き合って受け入れてくれる。それでいいんじゃない?って思うから、そういう生き方をしている。

 

おわりに

とまぁここまで書いてみると、このブログでは「表現する自由」を思う存分発揮している。ここまで自分のことについて書けるっていうのも、読者のことを頭の片隅に置きながら書くからだ。どこかで誰かしらに読んでもらっている。その意識が自分に対して、表現者・発信者たれ!と駆り立たせている。

んで、ここまで自由に書けるってのも、僕が意図的に読者層を限定しているからだ。更新通知を流すSNSも選定している。意図的に読者層にフィルターをかけている。これは「表現しない自由」の行使。なぜなら、このブログをFacebook上で公開するってイメージが、まだしっくりきてないから。まだその時じゃないって気がする。自分のなかではいつ頃になるかなってのは大体予想がついているのだけれども。まぁ徐々にね。

 

お読みいただきありがとうございました。

おしまい

「○○でいい」より「○○がいい」

さっき、散髪してきました。

美容院ではヘアスタイルの注文とかしなきゃいけないですよね。

僕はいつもと同じにしてもらうことが多いので、あんまり凝った注文とか付けるの苦手なんですが。

 

美容師さんに「○○な感じにしましょうか?それとも△△のほうがいいですか?」と聞かれて、

「あー、○○でいいですよ」と答える。

なんでもないやり取りのように見えるけど、「○○いい」って答え方に何となく違和感を覚える。

 

「○○の方いいっすね」と答えた方が、自分で選んだ感があってなんかいい。なんかいい、以上の何でもないけど。

 

たとえば、

ヘアスタイルを注文するとき、

ファミレスでメニューを選ぶとき、

観る映画を選ぶとき、

今日なにして過ごすか決めるとき、、、

「○○いい」って決め方だと、自分の本心に根差してないみたいで、なんかグッと来ない。妥協の人生のはじまりだ。

「○○いい」って決断すると、自分はそれを選んで生きてるんだって感じられて、主体的な生き方につながる。そうやって、選択と決断で生きられている自分を好きになれるかもしれないしね。

 

たとえば、

「あなたいいや」と言われるのと、

「あなたいいんだ」と言われるのと、

どちらが気持ちいいか。

「あなたを選ぶ」という点では同じなわけです。

どうせなら、自分も相手も気持ちよく感じる方を。

 

 

どんなにお飾りの言葉を並べ立てても、たった1文字の違いには勝てない。

「いつやるの?今でしょ!」ってアタマじゃ分かってるけど、できないんだよ~って人へ(まじで僕もそれですわ)

 

まぁ要するに、「今やれよ!」ってのを自分に言い聞かせるためのハナシをします 脳内思考垂れ流しのため読みづらくてゴメンネ

結局のところ、未来では、今やってることしかやれないよね、多分。なんか語弊ありそうだけど、なんていうんだろうか。「今やってることの積み重ね、その延長線上にしか、未来はない」っていうニュアンスかなぁ。「練習で出来ないことを、本番で出来っこないっしょ」みたいなニュアンスとも似ているかも。

「今やってることでしか、自分の将来を保証し得ない」んだろうなぁ。あ、違うわ。将来がどうなるかなんて分かったこっちゃないから、今やってることで未来が保証されるなんて言い方は止そう。未来は誰にも分かりません。だからこそ面白いんだ。

「今やってることが、何かしらのきっかけで、未来の生き方に繋がってくるんじゃないの?」とまぁ、そういう風な言い方にして、僕はぬる~く今を生きているわけです。キホン楽観的だから。

 

ところが一方では、こんなことを言い出す人もいる。「どうなるか分からない未来なんでしょ、どうせ。そんなお先真っ暗五里霧中、試行錯誤の闇の中を、なんでこんな苦しい思いをしてまで頑張らなきゃいけないの?今を、そうやって生きることに、何の意味があるの?」ってね。

うーむ、これは困ったものです。何が困ったって、明らかに正論じゃん。そうだわ、ホントにそうなんだわ。今をそこまで頑張らなくてもいいんだよね。時が経てばなるようになっていくんだよね。だから、そこまで無理をして今を頑張る、その意味が分からないんだよね。

その気持ち、今ならすげーよくわかる。今をめっちゃ頑張るのって、アレ相当大変なことなんだよね。いや、「今やればいいじゃん!」ってのは分かってんだよね。けど、できないんだよね、これが。実際言うと、僕はね、全然できてないです。頭ん中で思い描いている理想は、晴れ晴れと澄み渡っていて、「いや、お前もうコレめっちゃいいじゃん!やるしかないじゃん!今じゃん!」ってなってるのに、なんかね、やらないんだよね。文字にしてみるとまじで滑稽だわ。アホじゃねーかと思う。

 

他人からどう見られてるか分からないけど(まぁあんまり興味ないけど)、おそらく僕は世間一般で言うところの「意識高い系」ではないです。最近けっこう「意識高いね~!」って言ってくる人いるけど、当方全く覚えがないです。多分、彼ら彼女らの抱く「意識高い系」のイメージと僕にとってのそれは、違うんだろうね。僕は「とにかく行動派」がいわゆる「意識高い系」だと勝手に思ってる。んで、自分はそういう「意識高い系」ではないと思ってる。別になろうとも思わないや、とも思ってる。それがある種の強がりであるということも、感じている。

嫌われる勇気』によれば、今の僕は、「劣等コンプレックス」なんだわな。

「思い描く理想は素晴らしいのに、実際には行動に移せない。だから、心の底から満足のいく毎日が送れない。ガンガン行動できる意識高い系の奴らと自分は違うんだ。仕方ないのさ」と勝手に勘違いしている。

実際は、「今の自分を変えたくない、ガンガン行動するのはめんどい、心の底から満足のいく毎日を送りたくない」という自分の本心を合理的に納得させるため、「超アクティブ意識高い系と自分は違う人種なんだ」という勝手な思い込みを持ち出し、都合の良い解釈をしているにすぎない。

「今を生きることができない」から「満足いかない」のではなく、

「満足したくない」から「今を生きない」んだと。

うん、今はこの解釈でいこう。今いちばんしっくりくるのはこの考え方だ。まぁたまたま『嫌われる勇気』を参考にしただけであって、これが僕の現状を分析するのに最善かつ唯一の解ではないですが。とりあえず、これに従ってみるとする。

 

あとはさ、今やらないことの理由を、今現在以外に求めるからおかしくなるのかも。華々しい過去とかさ、憂鬱な未来とかさ。もう過ぎ去ったこととか、存在するかどうか見当もつかないことに悩んだって、なんも面白くなくね?少なくとも僕は、そう思う。

まぁたしかに、そりゃ自分を肯定したいから、過去や未来に思いを馳せることだってあるよ。楽しかった中高生のころを思い出したり、部活も受験もそこそこ頑張ったなぁと感慨にふけったり。あるいは、自分がこれから歩むであろう人生ってどんなだろうかと、期待に胸を膨らませることもある。むしろ、多々ある。そうやって楽観的に生きられるところが、自分の長所だとも思うから。

でもね、そうやって物思いにふけったあと、必ず戻ってくる場所がある。それが「今、ここ」だ。僕は「今、ここ」にしか生きられないから。そんで、「今、ここ」に何も無いと、寂しくなるんだよね。「あれ、俺って生きてんの?ただ、"死んでない"ってだけじゃないの?」そういう気持ちになる。これね、めっちゃ嫌だね。生き地獄ね。過去や未来にばかり生きようとして「今、ここ」を生きないから、こういう感覚になるんだろうね。

だから、今やらないことの理由は、今現在に求めるべきだと思う。別にやらなくてもいいんだよね。現状維持したいから、今は動き回るの面倒くさいから、今は幸せな人生を送りたくないから、今はやらない。うん、それがいいっすよ。他でもない自分がそう思うんなら、そうすればいいだけの話だ。

ただ、僕はそれで人生終わるのは嫌だから、「やる」という選択をしたい。それも、「今やる」という選択を。

変化したいのか、行動したいのか、幸せな人生を送りたいのかは、今の自分の行動に表れている。心の底の思いはじわじわと行動に滲み出ている。すげぇ単純な話だ。

2014.5.22

日記。

 

はじめに


アナと雪の女王 『生まれてはじめて』 [Radio sound source] - YouTube

こいつが頭から離れない。

すっげぇいい歌だ。

一日中、脳内再生。

 

バリバリ読む 

自殺論 (中公文庫)

自殺論 (中公文庫)

 

社会学専修の演習では今週から3週にわたって『自殺論』を読んでいきます。

有名どころですがこれまで読んだことなかったので、とりあえずバリバリ読んでいます。

「自殺論」とか、 タイトルからして物騒ですけどね。

こないだバイト帰りの電車の中でこれ読んでたら、周りからの「なんやコイツ」的視線を浴びました。仕事に疲れ、死にそうな眼をしたサラリーマンからの視線がなかなか、ね。

 

漢検受けようかな

今年度の漢検、第一回は6月22日にある。

準1級を勉強していたんだけど、バリバリやってたのは3月はじめまでで、いまんとこ通算1か月くらいしか勉強してない。

けどまぁ、お金振り込んでしまえば(準1級検定料:4000円)、さすがに勉強するっしょ!...するっしょ......

ま、今日が応募締切なんで(検定日1か月前)、振込が間に合うか分かりませんが、完了したら勉強再開ですな。

 

目標:いけるところまでいく!

 

 

おわりに

ふと、昨年の今日なにしてたかなって思い返すと、サークルの仲間と一緒に大学構内でけいどろやってまして、はしゃぎすぎちゃって右手首骨折してました。

まさかけいどろで骨折するとは思いもよらず、たぶん大丈夫だろうと見切り発車で、翌日はバスケして、翌々日はリーグ戦出場して、翌々々日もバスケして、「あ、これアカンわ。」で骨折発覚しました。おつかれさまでした。

思えば昨年は怪我の多い年だったから、今年は肉体面のケアを怠らずにいきたいですね。

 

お読みいただきありがとうございました。

おしまい

2014.5.18

日記です。

 

1130:起床。

 

1230:友人と昼飯を食べに。

今出川通り沿いの定食屋さん「くらり」へ。

くらり食房 - 元田中/洋食・欧風料理(その他) [食べログ]

自然派。ハンバーグ美味しい。

 

1400:友人宅でのーんびり。

いちごバナナスムージー作ってくれた。うまし。さんくす。

彼女は映画観てましたが、僕は読書を。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

巷で流行りの自己啓発も、もとはここから来ているらしいですね。 

アドラー心理学」、「個人心理学」とも呼ばれています。

もし心理学勉強するならこーゆうのがええわ。自分、こーゆうの好きだし。

自己啓発のイイ話ってのは高校の頃からめっちゃ耳にしてて、別段拒否反応もなく。

大学2回生の春から池田潤さんとも交流をさせてもらって、この手の話にはけっこうコミットしてきた。

読んでて思ったけど、大体が聞いたことのある内容で。池田さんが強調しているところと重なる箇所がかなり多かった。

まぁ、いろんなところで耳にするからには、それだけ重要な内容だということでもあり。

「嫌われる勇気」「自由とは他者から嫌われることである」ってのは、本書の重要なキーワード。

まぁ本書の別のタイトルを考えろと言われれば、「被害者の人生を終えろ」とかかな。

お前がお前の人生を生きなくてどーすんだ。お前が他人の人生を生きられないように、他人がお前の人生を生きることはできない。自分の人生に意味を与えていくのはお前自身だ。(ここはヴィクトール・フランクル - Wikipediaの思想にも似ていますね。)他人の問題とお前自身の問題を区別して考えろ。いつまでも被害者意識でいるから、人生におけるどんな出来事もお前にとっては災難に見える。被害者・受難者の意識を脱して、自分で自分の人生を生ききれよ。

僕が本書を通じて感じたメッセージはこんなところなんですが。まぁ「被害者意識からの脱却」ってのは、池田さんの影響を受けているのは自覚してます。

いつまで被害者でいるのか?受験コーチ池田潤が教える参考書学習法 | 参考書学習法

 

アドラー心理学ね。概要だけしか読み取れなかったけど、非常にシンプルかつ奥深い印象を受けました。

これ一冊置いておけば、本棚の自己啓発コーナーは充分じゃないか?とも。

胡散臭いキャリアポルノばかりがバカ売れするのも気に食わないので。

 

1630:いったん帰宅。

ふと、500円玉貯金やめようと思い、硬貨ジャラジャラ持ちながら銀行ATMへ預入れに。

ところが土日祝日の預入れ業務は「紙幣のみ」なんですね。愕然。

いやー、無人ATMなんて機械作業なんだし、なんで休みの日に「硬貨預入れのみお休み」とかするのー。分からんねぇ。

 

1700:三条四条をぶらつく。

あんま買うつもりなかったけど、夏物足りてなかったので数着購入。

 

2200:三条のムービックスでレイトショー。

今さら『アナと雪の女王』観てきました。

うん。よかった。ディズニーのハッピーエンド感、いいね。

「ありのままの自分を解放せよ」ってメッセージ、至るところで見かけるけど、最近は流行りなんだなぁ。

 

 

 

さて、来週のゼミ発表に向けて、勉強してこうかな。

あそびも、べんきょうも、しうかつも、ばらんすよく。

しうかつ、インターンは面白そうだからするつもりだけど、16卒で就職あんま考えてないから、イイ感じにフランクにいこっと。

 

お読みいただきありがとうございました。

おしまい