つなろぐ。

日々を綴る。

古本屋に見る「学び」の本質

 こんちは。

 

古本屋さんって、なんであんなに魅力的なんでしょう?

なんでなんすかね?

魅力は考えてみればたくさんあると思うんですが、僕にそう思わせる最も大きな要因は、

「いつでもそこにない」

ということかと。

 

本屋の窓からのぞいた京都 ?恵文社一乗寺店の京都案内?

本屋の窓からのぞいた京都 ?恵文社一乗寺店の京都案内?

 

知る人ぞ知る、京都が誇る名書店、「恵文社一乗寺店」の著作。

ここに、古本屋の面白さの秘密が書かれていました。

うろ覚えなので引用はできないんですけど、大体の内容は以下のよう。

 

「いつでもそこにない」ということ

古本屋さんって、店主の嗜好で品揃えも変わってきますし、どんな本が持ち込まれるかによっても本棚の中身は変わっていきます。

その結果、「いつでもそこにない」という状況がつくり出されます。

「いつでもそこにない」―つまり、お目当ての本がいつでもあるとは限らないのです。

だから古本屋って、「今日はあの本を買うぞ!」と意気込んで向かう場所ではなく、予想外の掘り出し物との出会いを期待してふらりと立ち寄る場所、とも言えるのではないでしょうか。

そして、「何かよく分からないけどこれは買っておいたほうが良さげ…?」という直感がはたらき、めでたくご購入の運びと相成るわけです。はじめはそんなつもりじゃなかったのにね。

ここで、「そんなつもりじゃなかった」というところが、「学びの本質的なあり方」のポイントかと。

 

古本屋は「学びの本質的なあり方」を体現している

「何の役に立つのかわからないものを、とりあえずストックしておく営み」というのが学びの原型にあると、内田樹さんだったか誰かが言われていたような気がしますが、古本屋の例はまさにこれで。

なんだかよく分からないけど、「いつでもそこにない」からこそ出会えた本がある。それをとりあえず自分のものにしておく。今は要らないものでもストックしておく。これが古本屋を物色するときの醍醐味であり、巡り巡って読書や学びの楽しさにつながってるんじゃなかろうかと。

 

「学びの本質的なあり方」は、偶然の出会いをとりあえず自分のものにしておくこと。それがどのように役立つかは今は分からなくていいから、とりあえずストックしておくこと。

古本屋に行くと、この「学びの本質的なあり方」に自然な形で導かれます。これが楽しいからやめられないんだろうなぁ。

 

まぁ、そんなことを言ってるから積読本だけがわんさか増えてく状況になってるんですけど。自由に遣える時間がたーくさんある学生生活のうちに、モリモリ読んでいきたいですね。

 

 

お読みいただきありがとうございました。

おしまい

糸井重里さんの講演会に行ってきた。

「はたらく」ってどーゆうこと?

「企業のあり方」ってどうあるべき?

「おもしろい」ってなに?

 

糸井重里さんの講演会が京大のすぐ近くで催されたので、聴きに行ってきました。就活キャリアセミナー的な位置づけだったのですが、そんなことは関係なく、「ナマ糸井重里さんの話が聴ける」ということだけを楽しみに行ってきました。特に書き残しておきたいことだけまとめておきます。

 

「はたらく」ということについて

糸井さんは小学生の頃、他人から怒られるのが非常に嫌だったらしいです。ほんで周りの大人を見ていると、どうも「会社という組織の中に入って仕事をしていると、日常的にたくさん怒られなければいけないらしい」ことに気が付きます。このころから「はたらきたくない」ということで真剣に悩んでいたそうです。

怒られたくないがためにフリーで生きることを目指したことで、広告業界に入ったのちも長きにわたるフリー活動を続けることになり、結果として現在に至るための下積みになったのでしょう。

今では「ほぼ日刊イトイ新聞」の主宰として経営の道もひた走る糸井さん。60人ほどのチームを背負っているわけですから、ともにはたらく仲間やその家族など、もっと多くの人のことを考えながらはたらく必要が出てきたと言います。

『辛くて苦しい仕事なんてしたくないから、その仕事をどうおもしろくしていくか、というところに考え方がシフトしてきている。』

『プロジェクトの局面ごとに意味を付与するんじゃなくて、利益を出すこと、人を喜ばせること、生きること…すべてが有機的につながり一つの総体としてまとまっているってのが、いま思う"はたらく"という言葉の意味。』

 

「これからの企業像」をおもう

企業のあり方についてもお話しされました。

今の会社ってどこも、予算だ売上だ市場占有率だと、数字を目標にするところがある。でもそれって、ホントに企業の目指すべき姿なの?数字じゃない目標だとか、損得勘定じゃない目的は存在するんじゃないのか。

たしかに、どこの企業だって経営理念だけ見りゃ素晴らしい。けどそれって、ただの巧言令色に終わってないか、と。カネや数字ばかりに合わせた経営をしていては、何か大切なものを見過ごしてしまうのではないか、と。

『カネに見合わない価値(社会に対する影響・人を喜ばせることなど)も含めた利益を真に考えられているかどうかが、これからの企業に求められてくるのかなぁと。また、そうしたところまで考えたうえで力を貸してくれる投資家が増えてきてくれると、もっといいのになぁ。』

 

また、企業のあり方を考えさせられる事例として「雪かき・祭り・山の茶屋」を挙げていました。

【雪かき】…とある雪の日を想像する。自分の店先とその両隣の軒先の雪、どうします?雪かきしますよね。それは自分のお店で商売しやすくするためだけじゃなくて、隣近所の家のためにもなるし、通行人のためにもなる。だから、雪かきをするのだ。でもそこで、雪かきのための人件費とか日当とかを考えだすから、おかしなことになる。雪かきは金稼ぎのためにやってるんじゃないでしょう。では、何のためにやるのか?

【祭り】…京都では祇園祭が有名です。そしてこの大がかりな祭りを成功させるために多くの企業が協賛しています。そんな中、「祭りを運営するのって大変だしお金もかかるなぁ、じゃあウチの企業は協力しませーん」とはならないでしょう?祭りって損得勘定でやってることじゃない。では、何のためにやるのか?

【山の茶屋】…旅人のために、山の中にポツンと茶屋があるそうです。あるところにはあるらしい。その茶屋って、経営するのめっちゃ大変じゃないですか、山の中にポツンとあるだけだし。でもなぜやるのか?利益だけ考えていたら当然割に合わないのに。何のためにやるのか?

 

これらの具体例から、「数字じゃないところにこれからの企業の価値はあるんじゃないのか?」という糸井さんの問いかけが見えてきます。

『ビジネスって聞くと、みんな利益とか数字とかのことを先に考えがち。それも大事だけど。ビジネスってのは、利益を出しながらも、雪かきだとか祭りだとか、そういうこともやっていくことなんです。そういう部分に尽力していくことが、結果として企業の成長につながっていくのだと思います。』

 

「おもしろい」ってなんぞや?

質疑応答の時間で、ある学生から出された質問。

「糸井さんにとっての、おもしろいってなんですか?」

これに対し、糸井さんの回答、

『「ころがる」ということです。』

 

「ころがる」―言い換えれば、他のアイデアを呼び寄せて次々と発展していく状態のこと―これを糸井さんは「おもしろい」と感じるそうです。

例えば、犬の話をしていたとして。犬ってなんで人気なんだろうかとか、人と犬の関わりの歴史とか、「今、犬にとってもっとも幸せな暮らし」は何だとか、色々アイデアが膨らんでいく。当初予想もしなかった方向に思考が発展していく。そういうときにおもしろさを感じる。なるほど。

 

自分に問いかけ続けろ

「言葉というのが苦手。経験しないと気が済まない性分。本とか講演とかに意味はあるのか?」という質問もありました。

糸井さん曰く、まずは歴史に聞いてみるとのこと。

人類が誕生して50万年ほどは、無文字文化だった。言葉のない時代、人間は歌や踊りや見よう見まねで大切なことを後世に伝えていったのだろう。だから、実体験で学ぶ方が分かり易いってのは、人間として当たり前なんだということ。言葉より踊りの方が伝わるのだ、本当は。言葉なんて上澄みのエキスでしかないから。

けれど、言葉ってとても便利なんだ。ただの上澄みでも、いい味を出すことがある。そういう意味で、本にも本のいいところがある。だから使うよりほかない。そのジレンマを感じながら言葉を扱うのだ、と。このへんはなかなか難しいところだったようで、あえてぼやかしている感じでした。

 

「気持ちをうまく伝えられるような言葉を使うにはどうしたらいいか?」との質問には、

『自分に問いかけ続けることです。伝わる言葉を研ぎ澄ますためには、自問自答を繰り返すより他ありません。どれだけ自分に質問したかが自分の言葉となります。』と答えていました。

『例えば、「あなたのことが好きだ」というメッセージを伝えるときに、これでもかというくらい自問自答してみてください。どこがどう好きだったのか?どういう方法ならもっとも望ましいように伝わるのか?そもそもホントに好きなのか?と。質問者と回答者が自分の中に共存しているのですから相当の時間と労力がかかりますが、その分だけ磨かれます。』

また、どんなに自分に問いかけたからといって、じゃあ相手に伝わるのかといえば、そうだとは言い難いところもあるらしく。つまりは、自問自答を繰り返すことで自分という存在が何を考えているのかすら充分に摑めていないことが判明するのに、いわんや相手を理解して伝えきろうなんてこったぁとんでもないことだと。言われてみればたしかにそうですね。けれども、その葛藤を繰り返す中に本当に伝わる言葉は隠されているのだろう、とも。言葉職人の口から語られると、重いですね。

 

 

 

とまぁ、新たな発見があったり前々から大事だなと思っていたことを再確認できたりと、楽しい2時間でした。最近は就活セミナーとかぼちぼち顔出してるけど、こーゆうゆるめな感じで考えごとのできる機会は嬉しいですね。こうした機会はこれからも使っていくつもりです。

 

お読みいただきありがとうございました。

おしまい

自分のことは別にいいから、まずは相手に没頭してみれば?

こんばんは。

久々の更新です。

普段からブログに書くネタには困らない程度の楽しい日常を過ごしてはいるのですが、んじゃ書くのか?っていうと別にそうでもない。

要は気の持ちようですね。更新せんでも、僕は生きているし、楽しくやっています。

 

さて、今日は何の話かというと、

「対人関係において、いかに自分を気にしすぎているか」

についてです。

 

先日、顔に怪我しちゃって、ここ最近は絆創膏貼ってたんですね。

小学生じゃあるまいし、やっぱちょっと恥ずかしいものです。顔に絆創膏って。

その状態で他人と対面すると、やっぱどこか恥ずかしい。

フツーに考えたら、変な格好してるわけですから。相手も気にしてんだろうなって思っちゃう。

この、「うわ~。今、自分めっちゃ見られてるわ~。」って感覚が、対人関係においてちょっとした問題になるのかなって。

 

 

普段、僕は他人と対面するときに、「自分がどう見られているか」についてあまり気にしていません。

それは別に、ファッションに気を遣わないだとか、そういうことではありません。身だしなみとか言葉遣いというのは、他人と接するときの最低限かつ最優先のマナーでしょうから。

「自分がどう見られているか」ってのは、「自分がどういう人間か判断されている」って言い換えてもいいかも。そして、そういうことは普段は気にしない。繕った自分を演じていても、しょうがないですからね。

 

しかし、今回はたまたま顔に絆創膏を貼っていたから、「見られている」という感覚がクローズアップされていました。

「あー、この人の目線、絆創膏に向いてるわー。変だと思われてないかなー。」

そういう、自分の外見に対する意識がふつふつと浮かんでくるのです。

 

ただね、それじゃちょっとおかしいんじゃないかなって思ったんです。

人と会話するなんてこと、何でもない日常の一コマに見えますけど、実は奇跡的なことで。

誰かと同じ時間を共有するってことは、その命を同じことに遣ってるっていうことで。

その奇跡的な瞬間に、自分のことばかり考えていたのでは、勿体ない。そう強く感じました。

 

心の底から相手に関心を持とうとせず、相手の目線や自分の評価ばかりを気にしている。

そういうことに命を遣ってるのは、ホント勿体ないって。

 

自分を一番大切にするのは悪いことではありません。少なくとも僕は、そう信じています。

自分を一番大切にできる人は、外見がどうだろうがなんだろうが、自分は自分であることを受け入れているし、そういう自分を好きでいられます。

すると、他人と対面しているときに自分のことで頭をいっぱいにする必要がないわけです。今さら自分の価値とか人間性とかに悩む必要がない。

だから、余裕ができる。相手の話にのめりこみ、相手を知る余裕ができる。

そうやってかけがえのない出会いを増やしていくことが、幸せに生きることにつながるんじゃないかな。

 

自分のことを気にしている暇があるなら、本気で相手と接してみれば?

情けなくてちっぽけで嫌いだった自分なんてものが見えなくなるくらい、相手の世界に没頭してみれば?

そこで生まれた出会いが自分を引き上げてくれるかもしれないのに、チャンスがそこら中に溢れているのに、やらないなんて勿体ない。

 

そもそも他人なんて、あなたのことなんかそんなに見てないよ。あなたが思っているほどには。「自分が人からどう見られているか」なんて悩みは杞憂でしかない。みんな、ほどよく気にしてくれて、ほどよく放っといてくれるんだ。

人間なんて誰だって、心のどこかで思っている。自分が一番大切で、自分が一番正しいって。でもそれって大事なことだ。自分を大切にできているからこそ、他人を大切にできるんだろう。

 

そんなことを思いました。

お読みいただきありがとうございました。

おしまい

「無限の可能性」について

「君には無限の可能性がある」と語る大人がいる。

そりゃあ確かに、そうかもしれないけど。

 

「無限の可能性」

その意味するところをよくよく考えたうえで、その発言をしているのかどうか。

ちょっと疑問に思うところがある。

 

「無限の可能性」への感謝

小学校の頃から学校教育というものに染まってきて、早や14~5年くらいが経つ。

幼い頃から「君たちには無限の可能性がある」と言われ続けてきたように思う。そういう教育者との出会いが多かったなって、自分では思っている。

そうして「無限の可能性って多分あるんだろうなぁ」っていう淡い期待を抱かせてくれたことに関しては、幾許かの感謝の念をおぼえる。それは結果として、現在の自己肯定感や自己愛にもつながっているのだろう。だからこそ、今の自分の恵まれた境遇があるのだと思える。

そういう意味では、「無限の可能性」という言説には、感謝している。

そういう意味では、ね。

 

「無限の可能性」という言説の功罪

普通に考えて「無限の可能性」って存在すると思う。

それが、いい意味であっても、悪い意味であっても。

 

 

たとえば、小学校の卒業式後のHRを考えてみる。

担任教師が卒業生に、最後の言葉を贈る。

「君たちには無限の可能性がある」と。

10年後のとある日、その教師は、朝のニュースで見覚えのある名前を目にする。

自分が10年前のあの日、卒業させた生徒の名前である。

「連続凶悪殺人 指名手配の犯人逮捕」という字幕スーパーとともに。

 

 

そのとき、この教師は何を思うだろうか。

後悔、憤り、恥。色々思うことはあるかもしれないけど、たしかに存在する事実は、

あの日、自分がこの生徒に語った「無限の可能性がある」という言葉が、たしかに現実となったということだ。

もしかして、犯罪者やテロリストになる可能性を排除して「無限の可能性がある」なんて言葉を発したなんて、思っちゃいないだろうな。

すべての可能性をひとつひとつ個別に考慮してから発言しろ、なんて無理難題を言うのではない。

「無限の可能性がある」という言説の、ポジティブな側面だけを見て発言するような、無責任な発言を正せと言っているだけだ。

 

都合の良い「無限の可能性」なんて存在しない

もし、「ポジティブな意味での無限の可能性」だけを希求するのならば、

そんな都合の良いものは存在しないと思った方が、結果的にラクだろう。

「無限の可能性」という概念を許してしまった瞬間から、「自分が忌み嫌うネガティブな意味での無限の可能性」の存在をも許してしまうのだから。

 

「無限の可能性」によって、僕たちは様々なものになれる。そのこと自体は事実だと思う。だから、「人は変われる」っていう言葉も嘘じゃないとは思うんだけど。

それらの言葉は自分にとって甘い響きを持つ。あらゆる可能性の一側面しか見えないように誘導する。思考を放棄させる。「好き」だけではやっていけない世界における「適性」の重要性から目を背ける。

そんなんじゃ何にもなれない。冷たい言い方かもしれないけど。

 

「君には無限の可能性があるんだよ」と言われ続けて、温室の中でお腹いっぱいに満たされたのなら、そろそろ外に出る時期じゃないのかな。

ありありと存在するであろう「無限の可能性」に対して真摯な姿勢で向き合うことでしか、それを生かすことはできなそうだ。どこへ向かうか分からない「無限の可能性」に依拠して生きるだけでは、何にもなれないだろう。

 

お読みいただきありがとうございました。

おしまい

春の陽気

好きな季節は春と秋。甲乙つけがたい。

 

春の陽気

ここのところ、過ごしやすい天気が続いています。

「毎日がこんな天気だったらいいのにね」と、昨日も友人と話していました。

すくなくとも1年の半分はこのくらいの天気でいいわ、と。

 

春の陽気ってのは、いいものです。

身体の内側から、自然とワクワクが生まれてくる。

その中に身を置いているだけで、ほのかな幸せを感じることもできる。

 

春は、別れの季節でもあり、出会いの季節でもあります。

悲しみと喜びの入り混じる、麗しき感情のきらめきに満ち溢れた季節。

 

何かが新しく生まれ変わるとき、その裏には必ず、訣別が存在する。

創造はいつでも、破壊と背中合わせです。

それは悲しいことでもありますが、喜ばしいことでもあります。

世の中は常に変わりゆく。諸行無常なわけですから。

創造と破壊は、その中に生きる者の宿命といっても過言ではないのでは。

春の陽気の暖かなぬくもりに包まれながら、そんなことを思います。

 

 

 

まぁしかしながら、毎日がこんな春の陽気だったならば、それはそれで考えもの。

絶えずぬるま湯に浸かっているような錯覚にすら陥りそうですね。

夏の暑さや冬の寒さがあってこそ、この春の陽気のささやかな幸せを享受できるのでしょう。

「人生もそんな感じよなぁ」と、先の友人と笑い合う。

 

ところで、1年中ずっとこのように過ごしやすい気候の国があったとしましょう。

夏の暑さも冬の寒さもない、楽園。

すると、そこに住まう人々の性格ってのは、大分穏やかになるんじゃないのかなぁと。

 

季節や気候というのは、人間の感情に大きく影響を与えそう。

ちなみに、雪国出身者には「忍耐強いが陰湿な性格」とかレッテル貼られることはありますね。

誰が決めたんそんなこと!?って思いますが、関西に進学してみたら案外そうかも。

一般化するには語弊がありますけど、やっぱ西日本出身の人って、明るくて気さくな人が多い印象を受けます。とてもいいことだと思います。

やはり、過ごすところの天気・空気は、人格形成に何かしらの影響を及ぼすのかなぁ。

 

 

春の鴨川のベンチで寝そべりながら、こんなことを考えていました。

鴨川、最高。

 

お読みいただきありがとうございました。

おしまい

自己啓発書オタクの「不感症なポジティブバカ」こそ、心無い言葉を振りかざす

3月21日に東京で行われた、加藤秀視さんと長倉顕太さんのトークライブに参加してきたので、そこで気づいたことなんかも今後書いていこうと思います。

 

自己啓発書オタクの「不感症なポジティブバカ」こそ、心無い言葉を振りかざす

なかなか、過激な切り口ですが。

言っていることは全然難しくない話です。

 

まず、よい例から。

毎日毎日いつでも笑顔。どんなに苦しいことがあっても、笑顔を絶やさずポジティブに生きている。

そういうことが、「心の底から」できる人は、いいのです。

それができる人は、ありのままの自分を全肯定していて、自己愛に満ちている存在です。

自分のいいところも悪いところも、両方あって自分なんだ、と。それでこそ自分が在るのだ、と。そう「心の底から」自分を肯定できる人は、どんなことがあっても笑顔でポジティブに生きられるでしょう。

 

また、そういう人は、自分を肯定しきれているから、他人や世間が勝手に決めた価値観に振り回されることなく、自分の感情に正直に行動することができます。

自分の感情に正直に生きる。だからこそ、自分の選択に自信を持った生き方ができる。

自分の感情に正直であるということは、自分の感じる苦しみや痛みにも素直に向き合えることを意味しています。そうした弱さを持った自分を責めることはなく、等身大の自分を受け容れられる。

だからこそ、他人の感じているであろう苦しみや痛みを、できる限り理解しようとすることができます。他人を完全に理解することは不可能ですが、心からの理解と献身を能う限り捧げることができる。

 

そういう意味でのポジティブな人ってのは、ホント魅力的に思えます。

 

 

 

対して、よくない例。

 

昨今巷で大人気の自己啓発書には、「嫌いな人にもいいところがある」だとか、「苦しい時こそ笑顔」だとか、俗に言う"イイ話"が山のように溢れています。

これをそのまま鵜呑みにして、形式的に実行しようとするから、「不感症なポジティブバカ」が量産されます。

 

具体的に言えば、

「本当は好きでもない仕事なのに、無理していいところを探して続けようとする」

とか、ね。

 

自分自身の正直な感情を偽って、好きでもないことを好きだとか言って、無理やりこじつけて生きている。

そういう「歪んだポジティブさ」を持ち続けると、人間は「不感症」になります。

自分が嫌いだと思うことを嫌いだと言えなくなる。

自分が好きだと思うことを好きだと言えなくなる。

結果、自分の本心すら分からなくなるような、感性の鈍い人間として生きることになる。

 

自分自身のことすら分からない感性では、当然、自分以外の人間のことなんか微塵も分かりっこありません。

(これは、あくまで論理的にそうなるっていう話です。見方によっては、自分とは何者か、他者とは何者かといったテーマは永久に結論の出ない問いでもあります。)

 

大事なのは、

自分の気持ちを大切にしているからこそ、他人の気持ちも大切にできるのであり、

他人の気持ちを大切にできるからこそ、それを他人事ではなく自分事として受け止めることができるのだ、ということ。

 

 

これは僕の個人的な話ですが、

自分も経験したことのある不安や緊張といった悩みを抱えた人には、素直に共感することができます。俺も分かるよ、というメッセージを伝えます。

しかし一方で、その人の気持ちに寄り添ってみたときに、「この人が抱えている困難や悲しみは、自分には経験のないものだ」と感じたときには、慎重に言葉を選ぶようにしています。時には、言葉なんてかけられない場合もあります。そばにいることでしかどうすることもできないときも。

たとえば、ひどいいじめや虐待を受けた経験だったり、芸術活動における特有の悩みだったり、です。自分に経験のないことで悩んでいる相手の感情を忖度することは、かなり難しいことだろうと思います。

軽々しく「分かるよその気持ち」なんて、言えないときもあるのです。

 

そういうときに、「不感症のポジティブバカ」は、

「切りかえて元気だそうよー!きっと大丈夫だからさー!」という言葉を投げかける。

別に、その言葉自体が悪いってわけじゃない。そういう言葉をかけてもらって立ち直れた人もいるだろう。

しかしながら、そうじゃない人だっている。「お前に何が分かるの?」と戸惑う人だっている。

この人はそのどちらなのだろうか。いま自分は、この人の感情をどこまで理解しきれているだろうか。この人にかけるべき言葉は何か。いや、いまはそばにいてあげることしかできないのだろうか。

感性を働かせて、そうした感情の機微を察する能力が、「不感症のポジティブバカ」には欠如している。

 

 

と、思いました。

 

 

まとめとしては、

ありのままの自分を全肯定すること。自分の感情に正直になること。自分を愛すること。

その上で、相手の気持ちを自分事のように感じられる感性を磨くこと。

んで、時と場合に応じて、相手に接すること。

でしょうか。

 

 

【関連記事】

他人嫌いは自分嫌い - 日々是好日。

内田樹の研究室 2006: コミュニケーション論二題(←嫌いな人との付き合い方論)

 

お読みいただきありがとうございました。

おしまい

餞の言葉

 

今日は母校の卒業式でした

学年が2つ離れた後輩も、高校を卒業する時期になりました。

 

2コ下ともなると、普段の学校生活ではほとんど関わりは持てなかったし、部活でさえもほんの少しの間しか関われなかった印象があります。

しかしながら縁あって、昨年夏に受験生に向けてお話とかをさせていただく機会がありました。そのとき久々にこの学年の子たちと会うことができましたが、1年生の頃と比べて、幾分か顔つきが凛々しくなっていたのを覚えています。

そして、あれから7か月。それぞれに与えられた試練を乗り越えて進路を定め、一段と成長したことではないかと思います。

 

卒業生のみなさんの前途洋々たる未来を祈念します。卒業、おめでとう。

 

校歌より

卒業式でも歌われたと思います、校歌。

ウチの高校の校歌めっちゃ好きだっていう僕の個人的嗜好はどうでもいいんですが、その校歌の中のある一節は、特に好きです。

 

「世は我が起つを待てるなり 何処飛躍の地ならざる」

"世の中は私が決起するのを待っているのである。どこが、私の活躍する場所でないだろうか、いや、あらゆる世界に私の活躍する場所は広がっているのである"

って感じでしょうか。

 

2年前の卒業の日も、この一節に胸を昂らせていた記憶があります。

まぁその気持ちは今でも持ち続けていたいものなんですが、卒業の頃とはまた違った思いを抱くこともしばしばなので、一先輩が感じたことをば。

 

 「世の中から」ではなく、「自分から」

「世は我が起つを待てるなり」の一節を字義通りに解釈すれば、「世の中は、私が起ちあがるのを、待っている」ということになります。

「世の中」は、「待っている」のです。

あなた自身の活躍の場を、世の中の側から、無条件で与えてくれるわけでは決してありません。

あなた自身が世の中に向き合って行動し続ける、その過程の中にあなた自身の活躍の場を見出せ。

この一節は、そういうメッセージを投げかけてくれているのだと思います。

 

ただ、そうした努力を続けられる人ばかりかというと、そうではない。

大学生になると、自由な時間が一気に増えます。個人差はありますが。

皮肉にも、人間は自由の大海に放り込まれると、心から欲して止まなかったその自由に溺れる。

自由すぎて、何がしたいのか分からない。自由すぎて、何をすべきなのか分からない。

そういう状況に陥ることもしばしば、、、。


僕も実際、これまでの大学生活の中でそういう時期を経験しました。

そうした時期のある日、「世は~」の一節が頭に浮かびました。そして思ったのは、

「世の中は自分に何を期待しているのだろう」ということ。

しかし、それを思い悩んだところで、別段何かが変わることはなかったのです。

 

「世の中は自分に何を期待しているのだろう」という問いを世の中に投げつけている時点で、「自分が世の中に答えを期待してしまっている」のです。

「待っている」はずの「世の中」から動いてくれることは、ない。

動くのは、いつも自分から。

そういう気持ちを心の片隅にでも置いといてくれれば、いつか迷い悩んだときの支えになるかと思います。 

 

まぁ、あんまり臆することなく、一歩一歩進んでいこう

とはいえ、いつだって自分から行動することのできる人ばかりではないですよね。

「そもそも、オレって何がしたいの?」と自問自答し、悶々とした悩みをじっくりと考えることができるのも、学生の特権ではないでしょうか。子どもと大人の狭間にあるモラトリアムの時期だからこそ生じる悩みも、あって当然。

大学に入ると、ホント色んな人がいます。ガンガン行動する人とかを見ていると、立ち止まっている自分に自信がなくなっちゃったり。様々な価値観にあてられて、フラフラしたりすることもある。

けれども、そういう経験があってこそ、自分の納得のいく一歩が踏み出せるのではないかな、とも思います。僕もそういう時期を経験して、今はやりたいことをいくつかやり始めているところです。臆することはない。

 

てなところで、母校卒業生への餞の言葉としたいと思います。

ご卒業、おめでとうございます。

 

お読みいただきありがとうございました。

おしまい

母校を訪れて思ったこと

帰省なうです。
先日は、高校時代を過ごした母校へ。

 

久々に会った旧友とともに、恩師の方々にあいさつしに行きました。

いつもより会えた人数は少なかったけど、皆さん変わらず元気そうだったし、僕たちも大学でいろいろ楽しんでいる様子を話せたのでよかったかな。

話した内容もけっこう面白かったんだけど、今回は割愛。

まぁ、2年前のちょうどこの時期、大学合格が決まってこれからのことを語ったあのころと、

1年前、大学生活を1年間経験して、ちょっとだけオトナになった気分のあのころと、

先日、大学生活も折り返しにさしかかるステージまで来てしまった今回では、

話す内容が全然違ってきていて、それだけでも何か感じるところがありました。

友だちの話すこともオトナになってきてんなーと思うし、先生と話すテーマもちょっとオトナになってきた感じです。そうあるべきなんでしょうねぇ。また成人式あたりにも帰省するし、夏にも余裕あったらお邪魔しようかな。

 

母校の今後・・・

さて、訪れた日がちょうど、高校入試の合格発表の日でした。

合格発表といえばドキドキの瞬間でしょうが、わが母校の今年の倍率は1.00倍...定員きっかり。

僕らが卒業する年の入試あたりから、ウチの高校の入試倍率が下がってる傾向にあったんですよね。

つまりは、人気がない(笑)

勝手な憶測ですけど、学校・生徒・中学生の3者それぞれに問題があるのかなぁと。


【学校】
  • 正直、他校と比較して客観的に誇れる特徴がない。進学実績とかで見ても、バスで通える市外の公立進学校の方が断然上。そのくせ、部活がめっちゃ強いわけでもない。だから、数字に出てくる実績で勝負するとどうしても不利。
  • とはいっても、「地方名を冠した公立進学校」的なところは譲れないらしく、「文武両道」を前面に押し出しまくる。そのため、課題やら部活やらで忙しいという印象ばかりが先行する。
【生徒】
  • 時には厳しい指導とか、面倒くさい校則とかがあるため、その点で学校に対してあまり良い印象を抱きにくいところはある。
  • そういう、自分にとって都合の悪い面を採りあげて、他校生徒や中学生へのネガキャンをする(笑)
    「ウチの高校、課題の量はえげつないわ、体育は軍隊だわ、キツイよー」という噂はすぐ広まる。それが冗談でも本気でも、すぐ広まる(笑)。
【中学生】
  • 勉強したい子は、進学実績がそうでもない地元の「自称進学校」よりも、市外の進学校に行きたがる。
  • 勉強したくない子は、自分の行けるレベルを限定して、入れる学校に入る。
  • 勉強もできるっちゃできるんだけど、「文武両道とか大変そう、校則は厳しい、体育は軍隊並みにツラいとか、そこまでして頑張らなくてもいいや~」って子は、そこそこの大学への進学も就職の選択肢もある隣の高校に行きたがる。んで、このタイプが多くなってると、個人的には思う。

 

こうしたことも、母校の人気低下の一因なのではないかな、と。

まぁ、中学高校を離れて久しいので、漠然とした憶測の域を出ませんが。 

帰省して高校を訪れると決まって必ず、この話になります。昨今の人気低迷を回復するにはどうしたらよいのかと。

正直、そんなこと大学生に聞かれても知りませんけど、ひとつ思うのは、

「"卒業してから分かる良さ"というのは確かに存在する」ということですね。

 

卒業してから分かる良さ

素晴らしい先生方がたくさんいらっしゃった。

面倒くさい校則を守る学校生活とか厳しい体育とかは嫌だったけど、自分を律する必要に迫られたとき、必ず生きてくる経験となった。

講演会とかも、大学教授とか招くんじゃなくて、若者をワクワクさせてくれる話をしてくれる人を呼んでくれていた。(この辺りは、他の高校と違ってけっこう特徴的だと思う。先生もそういう系の話好きな人多いし。)

そういう、卒業してから分かる良さってのは大いにあるね。

ただ、それを在校生、ましてや中学生に伝えようなんてこと、できっこない(笑)むしろ、そういう良さが分からないで当然なんだから。

「学び」っていうのは本来、「それをすることで何を学ぶことができるのかが、自分にはまったく分からない状態」でスタートすべきもの。やっているうちはよく分からないんだけど、あらゆる可能性を経て、あくまで「事後的に」成長が確認できる、という一連のプロセスのことを言う。(内田樹さんとかがこういうのよく言ってる。)

「教育」ってのもそれと同じで、いま子どもに対して施されている教育が、後にどのような成果をあげるのかは、やってみないと分からない。どう育つのかは、やってみないと分からない。

とはいえ、そんなことを公言していては何も始まらないので、便宜的に分かり易い目標を掲げるわけです。「国公立大学合格者○○名」とか、とりあえずね。けれども、学校側が本当に目指しているところは、そんな数字で測れるものじゃないんですね。

それじゃあ、その本当に大事にしたいところを、どれだけ伝えきれるか。伝わらないんだろうけど、それでも信念を持って伝えきれるか。というところに、学校側の不断の努力が試されるわけでしょう。

 

ま、そういうことで。

この高校に入学し、この高校で生活し、この高校を卒業することでどのような成長を得られるのかというのは、ウチの高校を卒業することのできた者だけしか知ることのできない特権なのです。

もちろん、何が正解か分からない闇の中をただ泳がされてるってわけではないです。勉強だけじゃなくて、部活やら行事やらなんやらで、日々気付き学ぶことはたくさんあります。バカなことばっかして戯れてたりするし、素直な子どもの多い、全然普通の高校です。

ただ、卒業して数年経って、「あの高校での、あの3年間は何だったのか」ということを振り返るとき、卒業した者にしか語ることのできないものがあると思う。 それが、いい。

 

これから高校を卒業する皆さんは楽しみですね。僕らの仲間入りです。

 

結局、何を書きたかったんだっけ。

別に母校のステマのためではありません、一応。結果的にそうなるかもしれませんが、それはそれでいいでしょう。笑

まぁ人間の数だけ考え方があるから、「あの学校は最低だった」と罵る人がいること自体は全然構わないわけです。その人の高校3年間がそうなってしまったことは、ちょっと悲しいけれどもね。

母校をめぐる評価については割れるところがあると思いますが、その辺りをうまく掬い上げて価値のある教育に資するようにするのが、学校側に課された使命であると思います。一卒業生がつべこべ言うのはここまで。

 

ま、母校への愛着があるってのは、やっぱり気持ちのいいものです。僕自身はこれからも、高校時代を思い返せば心が温かくなるような人でいられるので、そのことについては母校に感謝したいと思います。

 

お読みいただきありがとうございました。

おしまい

世界は己の写し鏡

3/5の投稿:他人嫌いは自分嫌い - 日々是好日。

を読み返していたら、これに関連することで少し思ったことがあるので。

 

他人は変えられるか?

自分の力で他人を変える、というのはかなり難しいことだと思います。

人間って、そんな簡単に変わるものじゃないでしょうから。

お金をいくら積まれても変わらないものは変わらないし、感動的な自己啓発のお話をいくら聴かされても変わらないものは変わらない。

こうした方法では、あまり切迫感がないですからね。

お金を積まれても、いざ行動するとなったら面倒くさい。

自己啓発本を読んで、セミナーに参加して、イイ感じになって、それで終わり。

 

では逆に、罰則を用意したり命の危険にさらしたりすることで、強制的に変えようとする方法もあるかもしれない。

しかしながら、こうした変化には恐怖心からの行動がつきものです。

「怒られるのが嫌だから」「殴られるのが嫌だから」

そうした恐怖の感情から生じた行動で変化が起きたとしても、その変化は果たして本当に実のあるものになるでしょうか。

「○○が嫌だから」「○○になりたくないから」

そこには、否定形の様態をとってでしか、自分を形づくる言葉が存在しません。

否定形の言葉って、潜在意識では認知しないらしいですね。

つまり、「○○しないようにする」といくら念じても、そのメッセージが潜在意識に届くことがないのであれば、実際の行動が変わることはない。

また、恐怖や罰則の力を借りて一時的に行動させたとしても、そのような動機から行動する者は、また別の恐怖や罰則によって簡単に操作される。そんなもんでいいのでしょうか、果たして。

 

そうではなくて、

「○○が好きだから」「○○でありたいから」

このように、自分が好きなことや自分の望むあり方を理由とした行動で変化を起こす方が、気持ちのいいものになるだろうと僕は思います。

 

 

とは言うものの、

「何が好きか分からない」「こうありたい、なんてものがない」

という人が多い現状、この方法をもってしても、他人を変えることは難しそうです。

(というか、「自分の好きなことに正直になって生き方を変える」なんていうのは、他人が口出しできる問題の範疇を超えてしまっていますね。その人自身がどうするのか、というところにかかってきています。)

 

結局のところ、人が、自身の力で他人を変えるなんてことは、甚だ困難なことのように思えてきます。

 

他人を変える前に自分が変わってみたら

「他人を変える」ということが難しいと分かった以上、次なる方法は、「自分が変わる」ということでしょう。

もうちょい具体的に言えば、「自分の世界観を変える」、さらに言えば「自分の"眼"を変える」というところではないでしょうか。

 

めっちゃよくある例が、相手のネガティブ面をポジティブ面として捉え直してみましょうってやつ。

  • 「うるさい」→「陽気だ」
  • 「ノロマ」→「慎重」
  • 「おせっかい」→「面倒見がよい」

以下省略だけども。

実際、相手の特徴には一切の変化も起こっていない。けれども、自分はそこからポジティブな面だけを切り取って見ることができる。

これって、自分が変わることで相手が変わったことにしてしまう、一種の消極的なアプローチですね。相手に対して積極的に関与することなく、自分が変わることで問題を解決してしまう。

他人を変えることに対して大きなコストを割くよりも、自分が変わるだけで生きやすくなる。そういう選択もあるのかもしれません。

 

自分が変わればそれだけでいい、のだろうか

ただ、どうも引っかかるところがあります。

相手は変わらないんだけど、自分だけは変わる。自分に見える世界を変える。そうすることで、自分から見える相手の姿を変える。相手に対する自分の認識を変える。

そうすることで、相手は変われたものとする。これって、ラクなように見えるけど、でも、なんか釈然としない。。。

相手のことを考えてみれば、相手は実際には変われていないわけだから。

「相手を変える」

そのことが当人のためになるのかどうかは分からないけど、明らかに変わらなきゃいけない場合だってあるだろう。

 

「自分が変わって、それでもって、相手も変わる」

そういう動きを生み出せるのが一番いいんじゃないかなって思う。

 

世界は己の写し鏡

自分が今見ている世界は、自分の価値観や認識様式によって切り取られた世界である。

だから、同じものを見ていても、人によって異なった見方がある。

そう考えてみると、ある人に見えている世界は、その人自身を投影していることになる。

「世界は己の写し鏡」になるわけである。

 

世界がそうであるならば、目の前にいる他者だって、同じこと。

他者は己の写し鏡である。

他者を変えようと思うのならば、まず自分が変わらなければならない。

他者は鏡の中の己自身である。

自分の顔についた汚れを拭き取ろうというのに、鏡を拭いてばかりいても、顔は汚れたままである。

鏡の中の自分の顔をきれいにしたいのならば、まずはこちら側にいる自分の顔をきれいにしなければならない。

 

 

そうじゃないかなって、思いました。

3/5の投稿:他人嫌いは自分嫌い - 日々是好日。から、このことをモヤモヤと考えていたのですが、やっぱりうまく言葉に表しきれないですね。

なぜ自分が変わることで相手が変わるのか。そこんところを深めるのがむずかしいです。これからも考え続けるべきテーマでしょう。

 

お読みいただきありがとうございました。

おしまい

ふとしたときに、地震が来るんじゃないか心配になることってありますよね。

杞憂でしょうか。

ふとしたときに天災に遭難するんじゃないかという心配に駆られることが多いです。なぜなのかは知りませんけれども。

東京をはじめ、都会を訪れるときには周りをキョロキョロしてしまうんですが、物珍しさからそうしちゃうわけではなくて、単純に「今ここで震度7地震が起きたらどうやって生き延びようか」みたいなことを考えてしまいます。

最近なんか、京都の下宿にいるときでもふと心配になったりします。
「ここ京都だけど、建物の耐震性って大丈夫なん?」とか「4階ってどんくらい揺れるんだろ」とか「大地震が起きたらどこに避難すればいいんだろ」とか。

僕が住んでる地区もそうなんですが、京都の街並みって、細い路地に区画されたスペースに家屋が密集しているんですよね。そんなところで大地震が起きたら、連鎖的に倒壊したり火災の延焼が起きたりしそう。自分のアパートだけの問題ではなくなってしまいます。


ところで、1回生の春に、地球科学者の鎌田浩毅教授の講義を受講したのですが、その時に聞いた話は今でも印象的です。
「2030年代には、ほぼ100%に近い確率で"西日本大震災"が起こる」
こんな話を聞いてしまえば、地震に対して心配することも、ただの杞憂に終わらない意味を持ちそうです。
この"西日本大震災"が実際に起こったならば、日本は一体どうなってしまうのだろう。

故郷新潟の中越で2度の震災を経験し、地震にはもう懲りた。東京は関東大震災が心配だし、関西に行っときゃまぁ大丈夫だろう。
そういう思いもあって京都に進学したのに、実は関西のほうが危険だった。なんたる皮肉か。てゆーか、自然災害のことを考えたら日本にもう逃げ場はない。だめだこりゃ。

ほんで今はこのエントリを、夜行バス内で書いてます。夜行バスの事故もいくらか耳にするここ最近。心配し始めたらキリがない。



と、こうした杞憂は尽きないものです。

今日は何となく思ったことを書いてましたが、明日は3月11日。東日本大震災から3年ですね。
「自分たちの生活はこれから先もずーっと続くんだろうな〜」なんて思ってた日常が、あの日を境に葬られた。
いつ何があるか分からない。自分にもそういう日が来るのかもしれない。
そう心に刻みつけて日々を過ごすのは、非常に重い生き方です。
ただ、そうした心の準備をしておく必要はあるのかもしれません。そのとき、一見杞憂に見える不安が、未来の自分をいくらか救うことにもなるのかもしれない。ホントにそうなるかは分からんけど。
だから杞憂も捨てたもんじゃないのかな、って思いました。

お読みいただきありがとうございました。
おしまい