つなろぐ。

京都の大学生、日々を綴る。

他人嫌いは自分嫌い

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今日のお昼は「さるぅ屋 Cafe&Bar」にていただきました。

ふと思ったことを。

 

他人嫌いは自分嫌い?

ふと、思いました。

 

「この人、何となく嫌いだな」と思う人の存在って、誰しもあると思います。

例えば、どんなのがあるでしょうか?

  • 他人の話を聴かない
  • 他人の価値観を認めない
  • 他人の悪口を言う
  • 他人の不幸をネタに笑い話をする
  • 欲しがってばかりいる(自分で創ろうとしない)

などなど。

例に挙げただけですが、実はこれ、以前の僕が嫌っていた人のタイプです。

こういうのだけでなくて、人によっては、

  • 「あの人のファッションセンス意味不!」
  • 「食べ方汚い人、ないわ~」
  • 「つーか、生理的に無理!」

みたいなケースもあるかもしれないですね。

さて、こういう「他人嫌い」って、どうして生じるのでしょうか。

 

「生理的に嫌」な人は自分に似ている?

人が他人を嫌う理由は、けっこう単純なところがあります。

それは、「自分の嫌な部分を認めたくないために、その部分を表に出している人に過剰反応する」からです。

相手の行動や性格のうちに、自分のなかの嫌いな部分を見てしまう。そのため、具体的な理由はないのですが、生理的な嫌悪感を抱くという構図が出来上がっているようです。

 

※「嫌悪感」についての私見

これって、人間の本能的な自己防衛の作用からしたら、至極当然のことのように思えますね。誰しも、自分の嫌いな部分は心の底に押し殺しておきたいものです。そうして「忘れる」ことができるからこそ、日常生活に支障をきたすことなく生きていける。いつまでも自分の嫌いな部分とにらめっこしていたら疲れてしまって、自分から逃げ出したくなります。最悪の場合、自分で命を絶ってしまうかも。けれども、そんなことにならないように、心の奥底に閉じ込めておくわけで、それでいいことにするわけで。

そんなとき、そうした心の平穏を脅かす存在として、自分の嫌いな部分の特徴を兼ね備えた他者が現れる。見たくもない嫌いな自分を、現前にありありと見せつけられる。そんなん、たまったもんじゃないですよね。だから、他人を嫌う。そうすることで、自分の感情に齟齬が生じないようにする。そうすることで、自分を救おうとしている。

「嫌悪感」っていうのは、そういう意味で、正常な機能として働いているわけです。忌避するものでもない。

「他人を嫌う」ということを押し殺してまで、「良好な」人間関係を築きましょう。なんて、昔の僕だったらウンウン頷いてたかもしれないですが、今考えたらどう考えてもキモチワルイですね、そんなの。

 

内田樹の研究室 2006: コミュニケーション論二題

内田樹氏の「嫌いな人との付き合い方」論。以下引用。

「嫌いな人間」を我慢して、「この人にもそれなりにいいところがあるんだ」とか、「嫌いな人間を我慢して受け容れることが人間の度量なんだ」とか自分に言い聞かせ続けていると、「何かを嫌う」という感受性の回路が機能を停止する。
だって、我慢している状態を「我慢している」と絶えず主題的に意識していたら、つらくて心身が持たないからだ。
これは我慢ではない。私は平気だ。私は何も感じない。
そうやって自分自身を騙すことなしには、我慢は続かない。
だが、恐怖と嫌悪は生物の生存戦略上の利器である。
「嫌う」回路をオフにするということは、コミュニケーション感受性をオフにするということであり、それは思っている以上にリスキーな選択である。
環境から発信される無数のシグナルのうちから「恐れるべきもの」「厭うべきもの」をいちはやく感知することで、生物は生き延びているからである。
その回路をみずから進んで機能停止にするということは、リスクにたいするセンサーを「捨てる」ということであり、生物学的には「自殺」に等しい。
「我慢する人」は、日々のコミュニケーションの中で行き来する非言語的シグナルの多くを受信できなくなる。
「こんにちは」という挨拶ひとつでも、それが儀礼的なものなのか、愛情や敬意のこもったものなのか、憎悪を蔵したものなのか…それを表情や速度や発声や姿勢から見分けることができなくなる。
「話の通じないやつ」「場の読めないやつ」というのは、要するにコミュニケーション感度の低い人間ということなのである。
コミュニケーション感度は生得的なものではない。
人は「イヤな仕事、嫌いな人間、不快な空間」を「我慢する」ために、みずから感度を下げるのである。
だから、「嫌いな人」と付き合ってはいけない。

 なるほどねぇ。

それじゃ逆に、「嫌いな人と付き合ってはいけない」からと言って、気の合う者同士でつるんでいさえすればいいのか?と言う疑問に対しても、氏は「気の合う人間なんて存在しない、好きな人なんて幻想でしかない」と答えます。この辺りはウチダ節が炸裂してる感じで、僕はかなり好みです。ぜひ本文をお読みになってみてください。

 

「嫌悪感」との付き合い方

結局のところ、どうすればいいんでしょうかね?

とりあえず明らかになったのは、

  1. 他人の嫌いな部分は、自分の嫌いな部分。
  2. 「嫌い」と思うことはおかしくもなんともない。正常。

この2点。

この問題って、人間が社会的な動物である限り永遠のテーマだと思うから、絶対的な解決策とか存在しないと思うんだけど、あえて提示してみるならば、

1.の方からアプローチ:「相手の嫌な部分は自分自身。自分自身を変える(好きになる)ことで相手を嫌だと思わないようになる(好きになる)ことができる」

2.の方からアプローチ:「嫌だと思う人間とは付き合わない。本当に気の合う人間なんて存在しない。そう割り切って、自分が大丈夫な範囲で共存の道を選ぶ」

の2つかなぁ。

 

個人的には、多様な価値観の存在を認めたいので、1.の方が好きだなぁとは思う。

2.の方を前面に出しすぎちゃうと他者の価値観の排斥に繋がっちゃう恐れがあるからね。

ただ、盲目的に1.の方を過信するのもよくないかな。「これは嫌だわ」っていう自分の気持ちを正直に表すことをしなければ、自分自身の思いは薄れていく。僕自身はどちらかというとそういう傾向にあると思うので、気を付けたいところです。

 

 

ふと思ったので綴ってみました。

お読みいただきありがとうございました。

おしまい