つなろぐ。

京都の大学生、日々を綴る。

「無限の可能性」について

「君には無限の可能性がある」と語る大人がいる。

そりゃあ確かに、そうかもしれないけど。

 

「無限の可能性」

その意味するところをよくよく考えたうえで、その発言をしているのかどうか。

ちょっと疑問に思うところがある。

 

「無限の可能性」への感謝

小学校の頃から学校教育というものに染まってきて、早や14~5年くらいが経つ。

幼い頃から「君たちには無限の可能性がある」と言われ続けてきたように思う。そういう教育者との出会いが多かったなって、自分では思っている。

そうして「無限の可能性って多分あるんだろうなぁ」っていう淡い期待を抱かせてくれたことに関しては、幾許かの感謝の念をおぼえる。それは結果として、現在の自己肯定感や自己愛にもつながっているのだろう。だからこそ、今の自分の恵まれた境遇があるのだと思える。

そういう意味では、「無限の可能性」という言説には、感謝している。

そういう意味では、ね。

 

「無限の可能性」という言説の功罪

普通に考えて「無限の可能性」って存在すると思う。

それが、いい意味であっても、悪い意味であっても。

 

 

たとえば、小学校の卒業式後のHRを考えてみる。

担任教師が卒業生に、最後の言葉を贈る。

「君たちには無限の可能性がある」と。

10年後のとある日、その教師は、朝のニュースで見覚えのある名前を目にする。

自分が10年前のあの日、卒業させた生徒の名前である。

「連続凶悪殺人 指名手配の犯人逮捕」という字幕スーパーとともに。

 

 

そのとき、この教師は何を思うだろうか。

後悔、憤り、恥。色々思うことはあるかもしれないけど、たしかに存在する事実は、

あの日、自分がこの生徒に語った「無限の可能性がある」という言葉が、たしかに現実となったということだ。

もしかして、犯罪者やテロリストになる可能性を排除して「無限の可能性がある」なんて言葉を発したなんて、思っちゃいないだろうな。

すべての可能性をひとつひとつ個別に考慮してから発言しろ、なんて無理難題を言うのではない。

「無限の可能性がある」という言説の、ポジティブな側面だけを見て発言するような、無責任な発言を正せと言っているだけだ。

 

都合の良い「無限の可能性」なんて存在しない

もし、「ポジティブな意味での無限の可能性」だけを希求するのならば、

そんな都合の良いものは存在しないと思った方が、結果的にラクだろう。

「無限の可能性」という概念を許してしまった瞬間から、「自分が忌み嫌うネガティブな意味での無限の可能性」の存在をも許してしまうのだから。

 

「無限の可能性」によって、僕たちは様々なものになれる。そのこと自体は事実だと思う。だから、「人は変われる」っていう言葉も嘘じゃないとは思うんだけど。

それらの言葉は自分にとって甘い響きを持つ。あらゆる可能性の一側面しか見えないように誘導する。思考を放棄させる。「好き」だけではやっていけない世界における「適性」の重要性から目を背ける。

そんなんじゃ何にもなれない。冷たい言い方かもしれないけど。

 

「君には無限の可能性があるんだよ」と言われ続けて、温室の中でお腹いっぱいに満たされたのなら、そろそろ外に出る時期じゃないのかな。

ありありと存在するであろう「無限の可能性」に対して真摯な姿勢で向き合うことでしか、それを生かすことはできなそうだ。どこへ向かうか分からない「無限の可能性」に依拠して生きるだけでは、何にもなれないだろう。

 

お読みいただきありがとうございました。

おしまい