直球ド真ん中で「きょろきょろ」しよう!/内田樹『日本辺境論』
「きょろきょろ」
丸山真男は日本人の精神態度の基本的なパターンを、上の擬態語でもって言ってのけた。
他国との比較を通じてしか自国の何たるかを語れない。確固たる自国のアイデンティティを自らを根源として表明することができない。そのため、新しいものを外の世界に求め実際に多様な変化を遂げてきたが、その「きょろきょろ」してやまない態度だけは一向に変わらない。これが、その地政学的辺境性によって規定された日本人の思考と行動の様式を端的に表している。
こうした「日本文化論」の類は、書店に足を運べばいくらでも目にすることができる。そのひとつひとつの是非を問うというのは、ここではあまり大きな問題ではない。なぜかと言えば、この「日本って国って、一体なんなん?」とエンドレスで問い続けるその態度こそに、日本文化が存在するからである。ここではないどこかに、日本文化の祖形や原点があるわけではない。それをひたすらに問い続けるところにしか、日本文化は姿を現さない。
辺境人としての日本人
日本文化論を語るうえでの「辺境」というのは「中華」の対概念である。朝貢-冊封体制を基盤とする華夷秩序のなかにおいて、日本人の辺境人としてのメンタリティが醸成されてきた。
外の世界からものを取り入れながら、うまいことやってきたこの国は、「何に役立つのか分からないけどとりあえず摂取しておく」という(内田氏的に言えば)「本質的な学び」の方法を確立した。加えて、極意や悟りといったものを具体的な場所に措定せず、学びのプロセスの中でそれらを体得していく「道」というものを編み出したところに、日本の辺境性の独特さがあるだろう。
その反面、「私は辺境人であるがゆえに未熟であり、無知であり、それゆえ正しく導かれなければならない」という論理形式を手放せない(p.169)といった弱点も抱えることとなる。「私は辺境人であるがゆえに…」という自己規定から脱却できないために、我を棄てて未知の世界に飛び込むことができない。辺境人のメンタリティにはこうした一長一短がある。
辺境人は辺境人なりに、学ぶ
直球ド真ん中で「きょろきょろ」しよう!と言ってみるのは、辺境人的性格から醸成された「学ぶ力」を大切にしていきたいと思うからである。
外来の「大きな」世界観や思想、文化を取り入れることでしか、資源の乏しい島国の発展はありえなかった。そうした地政学的辺境性のおかげで、日本人は「学ぶ」ことに関しては非常に大きな成果を残してきた。
それがいまや学びの選択は、「この学びによって得られる報酬とそれに支払う努力とを比較考量して、経済的に適当なコストであれば学ぼう。そうでなければ学ばない。」という経済の論理に委ねられるようになった。本来、学んだことが役に立つかどうかなど学ぶ以前の人間には分かるはずもないのに、ハナから学びを放棄してしまう。このような現代における学び方の問題に対し、辺境人的学びの態度は生かされる可能性を秘めている。そう思うのだ。