「生きる意味」と「死への覚悟」/内田樹『街場の現代思想』
当方、現代思想について知っていることもとくになければ、本書を読んでそのエッセンスを余すところなく吸収できたと言えるわけでもない。ただ、言ってることはなんとなく分かる(気にさせる)ように書くのが上手いというか、そこが好きでもありニクいところでもある。そんな内田氏の筆致。
「現代思想の何たるか!」とか、そういうことはとくに述べられていなかった(ように思う)。現代の日本社会に生きる、僕みたいなごくごく普通の人間が抱えることになるお悩み(階層社会、お金、転職、フリーター、結婚・離婚、大学などなど)を、おなじみのウチダ節でスッキリ解説、的な、ね。
今回はその中でもとりわけ印象深かったことについて。
「バカラのグラス」と「生きる意味」
バカラのグラスはとっても薄い。ゆえに、ぞんざいに扱えばすぐに割れてしまう。だからこそ、たいせつにしようと思う。そこに、価値がある。
人の命も同じことである。諸行無常、盛者必衰。古来、人間はその生の儚さを嘆いてきた。それでも、生きてきた。どうしようもなく脆いんだよ?この上なく儚いんだよ?けど、それでも、生きてきたのだ。
じゃあもしかしたらそこに「生きる意味」もあるんじゃないのか(ひとつ前の記事:〈子ども〉になれない僕(ら)の強がりをひとつ聞いてくれ - 積読本を"昇華"させる日々を綴るブログと化した「日々是好日。」で「生きる意味なんていらんわ!」とか言っておきながらアレだけど)。
無常観のDNAなるものは、日本人に受け継がれているのかもしれない。花見は散りゆく桜を見るのが、花火は暗闇の空に散り散りに消えてゆくさまが「あはれ」なのだし。近現代のテクノロジーの発展がそうした情趣に対する感受性を損ないやしないか?という記事(カメラのファインダー越しじゃ見えない世界があると思う。 - 積読本を"昇華"させる日々を綴るブログと化した「日々是好日。」)も以前書いたことがあったが、まぁいい。そういう儚さが「あはれ」だなぁという感覚は、僕らの心を潤すものとして、おそらくいつまでもありつづけるんじゃないかな。
そしてこれは、日本人だけに特別なものでもなさそうだ。形をかえて、全人類にそれぞれの「あはれ」を感じる能力は存在しているのだろう。
およそ私たちが「価値あり」とするすべてのものは、それを失いつつあるときに、まさにそれが「失われつつある」がゆえに無常の愉悦をもたらすように構造化されている。(中略)私たちがおのれの「生命」をいとおしむのは、それがこの瞬間も一秒一秒失われていることを私たちが熟知しているからである。(p.230)
へぇ。じゃあどうして、 私たちは「失われつつある」ものに対していとおしみを感じるようになっているのか。バカラのグラスで例えてみてよ。
「まだ割れないグラス」については、それが手から滑り落ちて床に砕け散り、それが「もう割れてしまったグラス」になった瞬間に私が感じるであろう喪失感と失望を私が想像的に「先取り」しているからである。(中略)私たちが「価値あり」と思っているものの「価値」は、それら個々の事物に内在するのではなく、それが失われたとき私たちが経験するであろう未来の喪失感によって担保されているのである。(pp.231-232)
つまり、実は私たちはある事物の価値を〈いま・ここ〉の基準で測っているのではなく、本質的には、それが失われるであろう未来の状況を「先取り」したところに価値を見出しているというのだ。これは個人的にはなかなかの気づきだった。〈いま・ここ〉で生きることを重要視するのは、それが失われゆく過程に価値を見出しているからなのだ。
ということは先述の問題に戻ると、「生きる意味」が欲しいのならば、「死ぬことの意味」についてありありと想像を働かせ、死に直面した自分を「先取り」しなければならない。
今の時代がしんどいのは、若い人たちに「未来がない」からである。もっとはっきり言えば、若い人たちが「死んだ後の自分」というものを自分自身の現在の意味を知るための想像上の観測点として思い描く習慣を失ってしまったからである。(p.238)
普通に暮らしていさえすれば、ふとしたときに命を落とすなんて危険もないほど安全なこの国で、常に想像力豊かに「死」を考えることは、困難な課題かもしれない。戦時中、僕と同年齢の若者が死に際に残していった「わだつみのこえ」と同じものを、今できるかといえば、できない。
「自分がどういうふうに老い、どういうふうに病み衰え、どんな場所で、どんな死にざまを示すことになるのか、それについて繰り返し想像すること」(p.239)を厭わず、素直に向き合うこと。まずはそこからやってみようと思う。