つなろぐ。

京都の大学生、日々を綴る。

「自分と向き合う」ことの功罪

Facebookとかでいろんなひとが「自分と向き合う」ことについていろいろ書いている。(僕のFacebookの友人にはそういうのが好きなひとたちが多い。ってか2回生後半あたりからなんか急激に増えた。笑 冗談抜きで。笑)

 

たしかにたしかに、自分と向き合うことは大切だと思う。けど、そこに執着しすぎて、Facebookに記事上げまくってるのに実際何も変わってないってひとも、いるのかもしれない。これは分からんけど。勝手な憶測だけど。

 

で、そうなっちゃうのはなんでなのかなって思ったら、まさに「執着」という点にあるのではないかなって。「自分と向き合う」という、そのことに「執着」してしまう。何でもかんでも、自分と向き合いきれていないことに問題の原因を帰着させてしまう。もしかしてそこに問題があるのでは?

 

思うには、どこまでいっても「自分」なんてもんは分かりっこないっしょ。あるところまで粘って粘って、「ふぅ、、、結局わかんねーもんだな、"おれ"って。笑」となっても、いいのでは?それは人間だから仕方ないのでは?

 

それなのに、「自分と向き合う」ことについて、あるときはあんまり思いつめたような投稿をしてみたり、逆にあるときは気楽にふるまって見せたり。そんなんずーっとやってる。そういうのがすごく目につく。なんか「ありのままで、自然に」って言いすぎるために、全然自然じゃないように見えてしまう。すごく、気になっちゃう。(あ、でもそれもそれで人間らしく思えてしまうなぁ。ああそうか、「人間らしさ」なんて曖昧な言葉に逃げるからダメなんだ。)

 

 

 

哲学者の永井均が本に書いてたことで、これは本文の文脈とは違う意味で引かせてもらうけど、

「水中で水を探したり、空中で空気を探したりすることに似ている」
 
永井均『〈子ども〉のための哲学』p.48 (講談社学術文庫,1997年初版)
という一文がある。この一文がどうも心に引っかかっていて、そのために巷に流れる「自分と向き合おう!」言説に妙な違和感を覚える。

 

その言説にのっかって「自分と向き合ってます!」的メッセージを書き連ねている人が、たくさんいる。それは僕の眼から見たら、暫定的な「自分」は、もうすでにそこにあるはずなのに、それには目もくれず「自分と向き合うのが大事だから!」って喧伝している。「本当の自分」はどこにもありゃしない、けれど今ここには「暫定的な自分」はたしかにある。それなのに、無いものを探し、あるものに気づかず、ただひたすらそれらを探すために、水中で水を探すように、空中で空気を探すように、必死こいて目を凝らしてる。

 

うーん、君はもう十分魅力的だと思うけど、そこまで君を駆り立てるほどの何かがあるんだね。僕はどちらかといえば君が自分と向き合ってあーだこーだやってることよりも、君が自分と向き合う必要を感じたのはなぜか、そしていまその行動に至ったのはなぜなのか、そのストーリーを教えてくれればそれで満足かなって、そう思っちゃう。

 

 

なんだか、ただの散文になっちゃったな。

 

ただまぁ思うのは、「自分と向き合う」ことに異常なまでに偏執狂的に執着してしまう風潮が、単純に、怖いなって思っただけ。なぜ怖いと感じるのか?といえば、それは僕自身が「自分と向き合う」ことを怖れているから、というのが筋だろう。それはたしかにあるけど、まぁこっちもこっちでそれなりに自分のことは考えている。恋愛関係とか、あまり乗り気でなくなってきた事業のこととか、将来の展望とか。そうした外的な出来事と、あとは最近読みまくってるいろんな本の内容を介して、自分のことをクソほど考えてる。嫌というほど見つめている。けれど、あんまり「自分!自分!」を押しすぎるのはどうも性に合わない。そこまで自分に固執していったい何になる??自分で自分に対して気味が悪くなってしまう。だから、怖いと感じるわけだ。

 

 

こんなことで「怖い怖い」と感じるような自分は、本当に小心者だ。でもまぁ、それでいいと思ってる。僕は僕で、今やりたいことをやって、それでもって、なんだかわからない・得体のしれない「自分」というものとの付き合いをやっていこうと思う。そう割り切れる点では、小心者でありながら、どこか楽観主義者なのかもしれない。そういうことにしておこう。

 

 

お読みいただきありがとうございました。

おしまい