つなろぐ。

京都の大学生、日々を綴る。

ひとり旅で、ひとりごと。

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8月の下旬に、青春18きっぷを使ってひとり旅をしていた。
当方、そこまでアウトドア派ではないが、一度何かに首を突っ込むと一気にのめりこむ性分ゆえ、旅にハマればとことん旅をするという。結局、10日間くらいずーっと旅をしていた。
 
 
 
さて。
 
ひとり旅ってね、まぁ予想以上に、暇。
 
 
 
「旅の本質は移動だ」と、大学の後輩が言ってたような気がしないでもないけど、今回はまさにそれを感じた。とにかく、移動に時間を割いた。
 
 
 
青春18きっぷでは特急には乗れないので、鈍行なりでゆらゆら揺られながら次の目的地を目指す。車窓から見える景色に思いを馳せるのもいいけど、何せ同じような景色ばっか続くと、まぁ正直、飽きる。
 
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んで、人間、暇になると考えごとを始める。
 
晩に泊まる宿、ご当地高校の制服ランキング、京都に残してきた大学の課題、せっかく忘れかけていたあの頃の苦い記憶、、、とかね。
 
「心に移りゆくよしなしごと」ってのはこういうことかなって思ったり。昔の人って相当暇だっただろうからあんなどうでもいいことばっか考えて、それを日記にしたためていたりしたんかなぁと。そりゃあ現代人が古文の教科書読んでもオモンナイわけだって、高校生の時はそんなこと考えてたけど、まぁそれはどうでもいい。
 
 
 
そんな思案の端々をiPhoneのメモに書き留めていたので、今回はそれぞれについてちょっとしたコメントをしていこうかなぁと。
 
※「」内はメモに綴られていた原文そのまま。
 
 
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「本を読みスマホを撫でる、頭でっかちで目の前のリアルが見えてない、それを賢い人間と呼べるのか」

 
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電車やバスを使って移動する旅。車内にはさまざまの他人が居合わせる。
 
スマホを見るのも飽きたからずーっと人間観察していた。
 
電車の一車両内にいる人間のおよそ7~8割は、本を読むなりスマホを撫でるなりしている。みな、心ここにあらずって感じだ。
 
現代人は、何かしらの情報を得たがっている。情報に飢えている。自分を楽しくさせてくれる情報が、本には、スマホには、溢れている。だから、没頭する。そうして座席に陣取りながら、手のひらの上のデバイスから新しい情報を貪り食っている。
その目の前で、たとえば足の不自由そうなお年寄りが立っていたり、たとえば子ども連れの妊婦さんが立っていたりする。でも、情報を摂取してやまない「賢い」現代人は、目の前の人間の置かれている状況に見向きもしない。
 
いやそれって、「賢い」って言えるのだろうか。頭でっかちになっていて、目の前の現状が全然見えてないじゃん、と。
 
「情報」はどこまでいっても「情報」だ。各々の経験を通じて情報と情報を結びあわせて、はじめて「知識」になる(人によっては「知恵」とも言うか)。
 
本やスマホから情報を得ることなんざ容易いことである。そんなの、やるのは人間じゃなくたっていい。情報ゲームはコンピューターにやらしとけばいい。僕ら人間が人間たりえる最後の砦は、「情報を知識に変えていく力」にあるんじゃないのかな。とすれば、先の「賢い」現代人は果たして、生きた知識を創りだしているのだろうか。目の前のリアルに向き合ってこそ、僕たちの貪っている情報が知識に姿を変え、真に価値を発揮するときがくるんじゃないのか。
 
 
 
 
 

「市井の人々の、なんでもない幸せを奪う権利は誰にもない」

 
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車窓からいろんな光景が見えた。
 
夕方、広島の尾道の港町を走っているときは、町の子どもたちが道を駆けまわって遊んでいた。とても無邪気で、たぶん自分たちが世界の中心にいると信じて疑わないんだろうなぁと感じた。
 
福岡に立ち寄ってホークスの試合を観戦した帰りに、孫の手を引いて家路をゆくおじいさんがいた。子どもが「おじいちゃん、今日の試合はこうでああで...」と話すのを、おじいさんはうんうんうなずいて聞いていた。さぞかし、幸せだろうなぁと思った。
 
こういうのって、何も特別なことはない、ありふれた日常の一コマだ。
 
だけど、そういう日常のありがたさというのを、ひしひしと感じた。あれは、当たり前ではなかったんだろうなって。
 
ひとり旅という、自分にとっては非日常の世界を体験していると、日常の暮らしに対する思いがふつふつと湧いてくる。不思議なもので、その感情は主に、「感謝」というものである。
 
普段より日常をありありと感じるというのは、自分が非日常を生きているときにしか起こらない現象だろう。日常は、いつもと変わらない(と思い込んでいる)から、日常なのであって。日常の中に生きていては、日常のありえなさ、それがどれだけ奇跡的なことなのかを思い知ることはできない。
 
限りなく奇跡的な日常への感謝を思い知らされたがために、この日常を守りたいと強く思った。誰にも、市井の人々のありふれた日常の幸せを奪う権利はない、と。
 
 
 
 
 

「ずーっとひとり。自分のことばかり考えるかと思いきやふと浮かぶあの人の顔、あの人のこと。そういう人こそ自分にとって大切な人なのかもしれない。」

 
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ひとり旅序盤は、自分のことばかり思案していた。今やってる事業のこととか、勉強のこととか、来期からの身の振り方とか。まぁそれだけでも十分考える時間はあったのだけれど。
 
ある程度のところまで自分のことを思案し尽くすと、まぁ当然の流れか、他人のことに思いを馳せるようになる。これが案外、やっていて面白かった。
 
自分ひとりで考えごとをしているときに浮かんでくる他人ってのは、こう、ふと唐突に現れる。脳内でどういう選択をしているのか、どんなアルゴリズムが働いているのかわからないけど、突如として現れる。
 
大学に入学したての頃に仲良かったヤツとか、小学校の頃にケンカして泣かせちゃった女の子とか、今でもそこそこ連絡を取り合う高校の同期とか。
 
 
 
人の顔が浮かんでくると、それに付随して当時の出来事もよみがえってくる。そういえばあの時こんな出来事があったなぁ、恥ずかしい思いや嫌な思いをしたなぁ、とか。なんでこのタイミングで思い出したかも分からないどうでもいい過去を思い出したりする。で、また新たな人の顔を思い浮かべては、その人を想う。
 
 
 
そうしてみると、こうしてふと思い浮かべる顔や名前ってのは、単なる偶然によるものでもないのかなって思えてくる。いまの自分がつくり上げられたのは紛れもなく、これまでの人生における数々の人たちとの出会いがあったからこそだ。このタイミングで、この瞬間に、ある人の顔を思い浮かべるというのは、その人のおかげでいまの自分を生きられていることを忘れないため、ではなかろうかと。決して偶然ではなく、必然の出会いだったということを、心に刻むためなのかなぁ、と。
 
 
 
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ひとり旅、やってみてよかったと思える。そこはかとない思索を思う存分垂れ流しにすることができたし、それらを通じて今まで知らなかった自分の新たな側面なんかにも気づいちゃったり。とか言ってどこまで行っても自分ってのはやっぱり分からんなぁとモヤモヤしたり。まぁそういう経験ができました、とさ。
 
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お読みいただきありがとうございました。
 
おしまい