つなろぐ。

京都の大学生、日々を綴る。

表現しない自由

はじめに(実話)

とある講義にて、とある教授は言った。

「学問の世界において、誰かが発表したことにたいして質問や意見、果ては感想すらないなどということは、大変な失礼に当たります。かならず何かしらの発言ができるように、注意して聴き、考えなさい。」

 

別の講義にて、別の教授は言った。

「僕は、学生に強制的に発言させるような授業はしたくありません。誰かに指名して必ず答えさせるなんてもってのほかです。自発的に抱いた意見を発言し議論することが生きた空間を創りだします。ここでは言わない方がいいかな...と迷ったら、発言しないのもまた自由です。」

 

後者の教授は、これを「表現の自由」の中に含まれる「表現しない自由」であると説いた。

 

表現しない自由

近頃、SNSやらブログやら各種ニュースアプリやらを利用する中で、なんというか、「発信することを促されている感」を否めない。発信を急かされている。ほらほらみんなもやってるよ、君も自分を表現しようじゃないか!、、、と。

たしかに、発信することで得られるメリットってのはかなりたくさんある。それは十二分に認めている。

インプットを確実なものにするためのアウトプットの役割。

自分の考え・信念なんかを掘り下げていくための、自分磨きのような側面。

発信に対して何らかの反応が返ってくる。自己充足ツールとしての側面もある。

発信するってことで自分の生が潤ってくるというのは、まぁ実感するところが大きい。そのため僕自身も、発信することで大いに救われているのは事実だ。

 

しかしながら、インターネットの海に浮かぶSNSという島々を渡り歩いていると、ひしひしと感じずにはいられない。数々の文面から滲み出てくる「発信セヨ」という無言のメッセージを。これ、見方によっちゃあ、「圧力」なんだよね。重圧です。そう思ってる人、たくさんいるはずです。

 

Facebookなんか、特にそうだよね。「たまには少しマジメなことでも書いてみっか。お洒落な写真も添えて。」とさせる、あの独特の雰囲気。これがもう少し進行しちゃうと、日々自分の思うこと・信念をガッツリ書き上げて発信しまくる人が出てくる。

いや、そういう「発信しまくる人」「表現しまくる人」を非難しているのではないよ。むしろ、彼ら彼女らが発信してくれるメッセージに励まされることも多い。自分を表現する人たち、とっても素敵だ。

 

だけど思うのは、無理して発信したり表現したりする必要はないってこと。タイトルの「表現しない自由」ってのはそういう意味。

 

「本当にやりたいこと」だったら発信しても恥ずかしくない、、、?

けども、これまた言う人は言ってくる。

「君が自分のメッセージを発信しないのは、自分に自信がないからだ!本当にこれがやりたいんです!って口先では言ってるけど、それは嘘なんだ!本当にやりたいことなら、Facebookで発信しようが何しようが恥ずかしくない!今ある人間関係を壊したくないだって?本当の君を表現するのに居心地が悪いコミュニティなんて無くても一緒さ!むしろ無い方がいい!本当の君のメッセージを訴えたときに嘲笑する人たちなんて、そこまでの付き合いだったのさ!さぁ、怖がることはない!発信し、表現するのだ!発信し、表現するのだ!発信セヨ、表現セヨ、、、」

はぁ。自分で書いてて怖くなってくる。本気でこういう風に考えてる人いるからなぁ。

 

「本当にやりたいこと」だったら発信しても恥ずかしくない、なんてことがあるのだろうか。「自分が本心では思ってること」を表現しても全然不安じゃない、なんてことがあるのだろうか。

結論から言えば、できる人はできる。できない人はできない。ただそれだけだ。

ただそれだけのことなのに、なんで「一億総発信者化」に諸手を挙げてバンザイみたいな風潮になるのか。ネット利用者全体に言ってることじゃないよ、ほんの一部の過激派の方々に向けて。

 

「本当は思ってることあるけど、SNSでいきなり発信していくなんて無理だよ...これで発信したら周りのみんなどう思うんだろう...こんなことでビクビクしている自分はまた、"自己愛が足りない"とか言われちゃうんじゃないだろうか...」

こんなことになっちゃうでしょうが。かわいそうに。

だから、表現することにそんな無理する必要なんてないじゃん。表現する方法と場所なんて、いくらでもあるんだし。本当に小さなことでもいいから、自分だけが分かるような小さな範囲でもいいから、あなたが思うことをやっていくことは間違ってないんだよ。って、それだけでいいじゃん。それで少しずつ自分に自信ができて、自分を好きになれた人が、自分を表現していけばいいんじゃないの。

 

僕自身のはなし

じゃあテメエ自身はどうなんだって話なんだけど。

僕は、いま付き合ってる友人も、セミナーとか旅とかFacebookで出会った人たちとも、みんなと仲良くありたい。単純にそう思う。欲張り野郎なんだわ。

正直な話、普段付き合う友だちとFacebookで繋がってる友達との間には、見えない壁があって、なんだか違った雰囲気が流れている、そんな感じ。

でも、どちらの集団にいても、そこに身を投じるときには居心地が悪くないんだな。それぞれのコミュニティで自分が一番生きやすい自然体の状態で、素の状態でいられるから。それぞれのコミュニティの人たちが、僕にそうさせてくれるから。

普段の友だちに見せている顔、普段の友だちと付き合うときに考えていること、Facebook上で繋がっている人たちに見せている顔(言い換えれば、Facebook上での僕の投稿)、その人たちとリアルで会うときに考えていること。

全部、僕なのであって。僕がそうしたくてそうやってる。んで、それが一番生きやすい状態にある。それならそれでいいじゃんね。

 

案外、自分の性格は「その場のノリに合わせて飄々と生き抜くのが上手い」というのが適当かもしれない。こういう書き方するとネガティブに読めるかもしれないけど、別にいいよね。それが自分だし。それで自分が楽しくて、みんなに楽しんでもらえれば。

そういう素の自分を一番よく分かってるのは、周りのみんなだ。そんなことは全部お見通しのうえで、僕と付き合ってくれてる。だから僕も素直にいられるし、素直な僕を出してもみんな向き合って受け入れてくれる。それでいいんじゃない?って思うから、そういう生き方をしている。

 

おわりに

とまぁここまで書いてみると、このブログでは「表現する自由」を思う存分発揮している。ここまで自分のことについて書けるっていうのも、読者のことを頭の片隅に置きながら書くからだ。どこかで誰かしらに読んでもらっている。その意識が自分に対して、表現者・発信者たれ!と駆り立たせている。

んで、ここまで自由に書けるってのも、僕が意図的に読者層を限定しているからだ。更新通知を流すSNSも選定している。意図的に読者層にフィルターをかけている。これは「表現しない自由」の行使。なぜなら、このブログをFacebook上で公開するってイメージが、まだしっくりきてないから。まだその時じゃないって気がする。自分のなかではいつ頃になるかなってのは大体予想がついているのだけれども。まぁ徐々にね。

 

お読みいただきありがとうございました。

おしまい