カメラのファインダー越しじゃ見えない世界があると思う。
こんばんは。
このブログのURLをですね、
僕のツイッター(地元アカの方)に載っけたり、2つ前のエントリにもご登場いただいたはじめさん(Rail or Fly )のツイッターに載せていただいたりしたところ、
閲覧数がこれまでの100倍になってました。わろた。ネットすげぇ~
これまでより多くの方に訪れていただいたのは、素直にうれしいです。
まぁ今後も、自分の思うところをゆるりと綴るスタイルは続けていきたいと思います。
閲覧数とかにはあまりこだわらないでいきますが、ぼちぼち読んでいただけると嬉しいです。今後もどうぞよろしくお願いします。
さて。
今朝は10時くらいに起床。
今日明日と、国公立大学の2次試験なんすね。受験生、がんばって。
京大の2次試験といったら、アレ。
受験生に対する京大の「おもてなし」は例年通りといったところでしょうか(笑)
京大の自由の象徴・折田先生像、2014年は「キョロちゃん」になって出現 - GIGAZINE
ぶっちゃけ、折田先生像自体についてはなんかどうでもいいんですけどw
その設置に際して思うことはちょっとありますね。
上記の記事にもありますが、折田先生像というのは本来、2次試験前日の深夜にひっそりと設置されるもの。「いつ、誰が設置しているのかよく分からない」ってのが面白い。
ところが、最近ではツイッターなんかで設置風景を速報みたいにして投稿する輩がいますね。そういうことをすると折田先生像の面白さってのがちょっと削がれない?とも。
去年の今頃もほとんど同じことを言ってたと思うんだけど、折田先生像は朝吉田南にやってきて「おっ」となるものであって、深夜の作業風景を実況して「今年は○○のようです!!」と実況するのは野暮だと思うんだ。個人的にこっそり作業を見るのはいいと思うけど、それは心に留めて帰ればいいじゃんと。
ある京大生のツイッターでのつぶやきを覗くと、こういう意見をお持ちの方もいらっしゃる。僕も同感です。
テクノロジーの光によって、かき消される闇の中の面白さ
「いつ、誰が設置しているのかよく分からない」という、一種の闇みたいなところが面白かったはずなのに、ツイッターによってその闇が照らし出されてしまった。ネットがあると中途半端に先が分かってしまうから、逆に面白くない。何が起こるか分からない目の前の世界の移り変わりこそが面白いんじゃない?とか感じますね。
まぁ現代社会では、そういうスロウな楽しみ方よりも、もっとファストな楽しみの方がウケがいいのかもしれません。僕だってそうした利便性を日々享受しているわけですから、全部を否定するわけじゃありません。
ただまぁ、電子機器の利便性に囚われてしまって、現実にある大切なことを見逃したくはないなぁ、と強く思うのは変わりません。
「常に時代を先取りする情報を!」
と、歩きスマホしてる人が電柱にぶつかってたら、本末転倒ですよね。目の前のことに対応できてないで何が時代の先取りだ(笑)
「後で見返せて便利だから、思い出は全部記録しておきたい」
そう思って何でもかんでも写メったりムービー撮ったりする人たち。それが悪いとは言いませんが、些か野暮ったいかも。桜は散りゆくのが美しいのだろうし、花火は空に消えゆくのが美しいんだろう、、、多分ね。満開の桜も空に咲く大輪の花火も、ともに美しいですが、それらが儚く消えゆく過程に情趣を感じるのが、日本が世界に誇る「無常観」だったんじゃないかなぁ。そのくらい、自分の眼で見て感じられるようでありたい。
「子どもとの思い出は一生モノ」
っていう親の気持ちは、おそらくとても深いものでしょう。もちろん、カメラやらビデオやら使ってたーくさん思い出を残してほしいと思います。老後の楽しみにもなりますしね。しかしながら、我が子の晴れ姿である卒業式を、始めから終わりまでカメラのファインダー越しに眺めていては、、、どうなんでしょう。そういう節目のときくらい、子どもの成長をその眼でじっくりと見つめてあげるべきではないでしょうか。たしかに、ムービー撮っとけば後から何度でも見返せますが、卒業の瞬間にのみ生じる空気と感動は、二度と戻ってくることはないですよね。
「生身のからだで切り取った感動を心に深く刻みつけておく」っていう経験をしてからでも、ネットやテクノロジーを駆使するのは遅くはないんじゃないのかな。
京大入試恒例の折田先生像からこんな話になりました。
お読みいただきありがとうございました。
おしまい