つなろぐ。

日々を綴る。

両親と僕

僕の両親は、あったかいひとです。

 

なぜいま両親の話を。

両親が今日明日と京都観光に来ていて、今夜の夕飯をともにしたのです。

雪国新潟からはるばる上洛したはいいものの、今日の京都は生憎の大雪。雪を引き連れてくるとは、なんとも雪国チックな2人です。

そんな2人を連れてお気に入りの定食屋さんへ。

 

魚料理をつまみに色々話した。

とくら - 出町柳/定食・食堂 [食べログ]

お父さんとお母さんの2人で切り盛りしている昔ながらの定食屋さんって感じです。京大生も多く利用していて、学生さんにすげー優しい。女将さんのあったかさがたまらないです。僕の地元新潟では、日本海のすぐそばに住んでいたということもあり、海の幸には大変恵まれていました。ところが、進学して京都に移住してきますと、どうしても魚介類のレベルは落ちてしまいますよね。しかしながら、定食屋とくらでは魚料理に対する京都のハンディを感じさせません。マジ、めちゃくちゃうまいです。定食の相場は900円~1100円程度と学生にとっては少し値が張りますが、日替わりのサービス定食では700円で提供しています。味は間違いないです。うまい。ぜひ一度ご賞味あれ。

 

ウチの両親のこと。

さて、美味しい料理をいただきながら両親と、くだらない話から真面目な話まで色々しました。

父は、基本的には静かな人で、本とお酒が大好きな人です。包容力の塊。ユーモアがあって面白い(言い換えれば、普段は親父ギャグを言ってるだけのオッサン)。

母は、にぎやかな人。よくそんなにしゃべるネタが尽きないなぁと。あと、超超超プラス思考。普段もそうだし非常事態(震災で被災したときとか)でもそうだから、そこんとこはすげぇって素直に思う。

こんな2人だから、うまいこと合うのかなって高校生くらいの頃から思うようになりました。話すのが好きな母と、話を聴くのが好きな父。明るい母と、落ち着いた父。絶妙なコンビネーションだと思う。

僕は、自分の両親、父と母のことを尊敬しているのですが、その「尊敬」っていう語感も、僕が年齢を重ねるごとに変わってきている気がします。

 

中学生の頃は、部活とか学校行事とかでなんだかモヤモヤすることがあったら、親にも相談していました。自分の狭い視点では気づかないことをやんわり諭してくれたのを覚えています。(とはいえ、当時の自分はそんな「大人びた」考え方を素直に受け入れるはずもなく、プンスカしていたのでしょう。それを見て苦笑いする両親の顔が浮かびます。)素直に受け入れられなくても、「自分の価値観だけではなんともならない世界がある。他人の価値観も尊重しなきゃいけないね」っていうことを教えてくれる存在として、両親を尊敬していたのだと思います。中学生の頃の僕は。

 

高校生になると、両親への尊敬は違った形で現れてきます。部活のバスケは上位大会まで進出したため、6月の終わりまで現役でした。その後、京大に行きたいという思いを抱き、受験勉強を開始したわけですが、親の反応はどんなもんなのかな~って正直心配するところもありました。通っている高校からしても、当時の学力からしても、どう考えても手が届くようには思えない目標だったからです。

しかしながら、両親の反応は「やってみたいなら、やってみればいいじゃん!」というものでした。「自分のしたいようにしていいよ。あなたを認めているし受け入れている」という愛情を降り注いでくれていたのだと思います。こうした包容力のあるところとか、自分の子ども(或いは、それに限定されない他者の価値観や行動)に対して寛容であるところには高校生ながら尊敬し、大変感謝しました。てか、今も感謝しています。そのおかげで、今の僕があるのですから。

 

そして、今回食事をともにして感じた両親への尊敬は、高校生の頃に感じたものとは少しだけ違うものだったように思います。

今後の大学生活の方針を話すうえで、このまま普通の流れに乗って就活して4回生で卒業して就職して…という道をたどるのはなんか嫌なんだと。大学1・2回生は正直、自分のために時間やお金を投資しきれなかった。だから、3・4回生では今までと違った大学生活をしてみたい。また、社会人として働き始める前に、「大学生」という時間をもっと遣いたい。そのためには休学することなども考えている。そうした旨を打ち明けました。

今回の両親の反応は「お前ならそう言うと思った」でした。

大学受験の頃から、世間で言われる「普通」の生き方でやっていくタイプの人間では無いんだろうなと感じていたそうです。だから、今回のような展開も少しは考えていたそうで。自分たちの世代の価値観に合わないことを頭ごなしに反対するのではなく、子どもの生きている時代や社会をできるだけ理解しようと努めてくれる、そういう態度には素直に尊敬しました。と、同時に、やはり自分の子どもの姿をちゃーんと見ていてくれるのだなぁと。ホッとするというか安心するというか。

 

「親」という存在

「親なんて面倒臭くてウザったい」って思ってる若者も多いのでしょう。しかし、自分の生みの親は唯一、彼と彼女しかいないという事実に、失くしてから気づいても遅いのです。「生んでくれなんて言った覚えはねぇよ!!」って反発する気持ちも分からないでもないです。けれども、それは親だって同じですね。「別に生まれてくるのがあなたではなくたってよかった」そういう論理だって通るはずです。

それなのになぜ、数々の困難を抱えながらも親が自分を育ててくれたのか。生物学的には子孫を残すのが本能だとかどうとかなんとか、そういうハナシは抜きにして。

そこには、係累にまつわって生じる、目には見えない「情」があるのではないでしょうか。その呼び名のひとつが「愛情」なのかな、とも。両親の心の根底に流れるであろうそうした情念を感じ取るときに、僕は彼と彼女に対して、「感謝」や「尊敬」の念を抱かざるを得ないのです。

 

なんかここまで書いてくると自分でも「親のこと、溺愛しすぎじゃねw」って思っちゃいますが、まぁ自然とそう思ってしまうのだから仕方ないですね。溺愛っていう表現が適切だとは思いませんけど(笑)「感謝」とか「尊敬」といった、大人対大人の関係に生じる感情が多くを占めるようになってきたと思います、最近はね。

だから、僕は自分のことを親と家庭に恵まれた幸せ者であると、自信を持って言うことができます。んでもって、自分が与えてもらったことを他者や社会に還元していきたいと思うようになりました。育児とか教育といった面で。ただし、すべての家庭がウチの家庭みたいになる必要は全くないし、気持ちが悪いんでそんなことは勧めません(笑)

一方で、子どもが育つ過程で悲しい思いをしている家庭もあるはずです。子どもが大きくなってから、幼い頃の育児に後悔を抱く、そんな家庭も多いのではないでしょうか。そうした家庭をひとつでも多く救いたいと、今は考えています。めちゃくちゃ大雑把ですけどね。

 

結局、両親の話から自分の今後の話にまで続いてしまいましたが、今日はそんなことを思いました。自分の両親というかけがえのない存在は、僕の人生にとってもまた、かけがえのない存在です。(両親がいなかったらお前も存在すらしてないけどね。)

お読みいただきありがとうございました。

おしまい

 

 【関連図書】

:子どもが幼い頃の育児に。

子どもが育つ魔法の言葉 (PHP文庫)

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 :青年期を謳歌する、中高生・大学生の若者のさらなる成長に。

「また、必ず会おう」と誰もが言った。

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