つなろぐ。

京都の大学生、日々を綴る。

読書について

こんばんは。

東京旅を終え、まったりした一日を過ごしていました。

京都帰ってきて思いましたけど、こっちクソ寒いっすね。笑

ナチュラルに雪がちらつくほどです。寒いのなんの。

京都の冬は底冷えするしアパートも簡素な造りなんで、もしかしたら新潟いるときと同じくらい寒いですかね?

とか考えたけど、雪に囲まれてるからやっぱ新潟の方が寒いかな(笑)

とにかく、寒すぎて今日は早く起きてしまいました。

 

読書を見える形で整理する

ということで、ブクログの整理をしていた。

tsunashimaの本棚 (tsunashima) - ブクログ

下宿に置いてある本だけでもまだ登録しきれていないけど、とりあえず読了本と積読本は登録しとこうかなと思い、朝起きてから昼過ぎまでやってました。

自分の読書の傾向としては、最近はもっぱら評論系なのかな。特に人文・社会科学系が多いかも。まぁ専修にするだけあるから、読んどくべきかな。

逆に言えば、小説は長いこと読んでない気がする。最近は青空文庫でちびちびと中島敦作品を消化しているんだけど。それ以前に読んだのは、湊かなえの『母性』で、これは11月くらいじゃなかったかな。随分、小説から離れている。

やっぱり新書とかで評論系ばっか読んでいると、そちらの方に頭がシフトされてくる感がある。しかも、社会科学系の本とか読んでると同じような内容があちこちの書籍で出てくる。「構造主義」とか「近代社会」とか「自我」とか「価値観」とか。それらをつなげて考えるのも面白くなってくる。そういう段階までとりあえず読んでみないと、読書は習慣化されないのかもしれない。

(ちょっと外れる話だけど、たとえば受験期のセンター国語の評論で、カントの道徳論と現代社会の問題との関連とかが出てきたりすると、「おおっ」って思う。そこで「国語」と「倫理」っていう教科間のつながりを感じられる。そういう体験をすると、表面的には「倫理やってて良かった~これで現代文の点数アップにつながるわ」とニヤニヤできる。ただ、もう一段上の意味では「倫理の時間にはなんでこんなことすんのか意味わからなかったけど、今回現代文でこの評論を読み解いていく中でカントの道徳論にはこういう意味もあったのだと知ることができた。なるほど。」と、学問間の統合を図ることもできる。そういう体験があると、自分に新しい気付きを与えてくれる現代文も楽しくなってくるし、その読解の下地としての他教科の勉強も楽しくなってくる。なんて人もいるのかもしれない。その場合の「受験勉強」と「読書」も一緒じゃないかな。はじめは地道に続けることでしか、楽しみを原動力とした習慣化はできないと思う。)

読書の習慣化の話は置いといて、評論ばっか読んでると小説は、ある意味では読みやすいしある意味では読みづらく感じるなー。すぅっと受け入れてくれるのに、踏み込んでいこうとすると拒まれる感じもある。

ただ評論と小説という本のジャンルにおいて常々思っているのは、

「読書は心の糧。評論は肥料であり、小説は水。」

ということですかね。

どうも評論系ばかり読んでしまう自分には、この言葉を思い出すようにしてます。(ちなみにこの言葉は自作です。)

肥料ばかり与えていても、水がなければ心は枯れてしまいますからね。

あ、あともっと言えば、

「心の肥料と水は読書。心を耕すのは行動。」

ではないかと。

もちろん、本ばっか読んで沈思黙考する時間は無くてはならないものです。孤独についてのエントリ(音楽依存症と孤独について - 日々是好日。)でも書きましたが、自分だけの時間を大切にするというのは、成長するには必要不可欠なことです。

しかしながら、僕たちは社会や世界のなかで生きているわけですから、他者の価値観の違いを肌で感じ、それらに向き合いながら擦りあわせを行う必要があるのだと思います。自分を理解し尽くすことですらできないのに他者を完全に理解することなど到底できませんが、その価値観や世界観を漸近線的に近づけようと試み、よりよい社会を希求する営みは行うべきじゃないでしょうか。

とまぁ自分の思う理想的な「行動」について少し考えを述べましたが、別にそんな大仰なことじゃなくてもいいのだと思います。散歩したりスポーツしたり買い物に出かけたり。そういう種々の行動を通してしか僕らの心に届かないものは、きっと存在すると思います。そうした行動から得られた経験も心の糧にできるのでは。

 

冗長な文章を連ねましたが、「僕は読書をこういう視点から考えている」っていう、自分に対する確認みたいなものでした。

お読みいただきありがとうございました。

おしまい