ふたつの「みやこ」
雪国、しかも真冬の最中にこの世に生を受けたためか、寒いのは得意なんでしょう?と言われることも少なくない僕だが、まったくもってそんなことはない。寒い。ああ寒い。
この底冷えの厳しさたるや、故郷のそれを思わせるほど。京都ってなんでまた、夏はうだるように暑く冬は凍えるような寒さに見舞われるのだろう。鳴くのはウグイスだけじゃない。毎朝毎晩、凍えて泣けてくるのはこちとら同じじゃいと、平安遷都に踏み切ったいつぞの帝に訴えたい。
寒さを押し切り今日も街に出る。とはいえ雨模様の空と相談しつつ、近場で済ますことにした。
けっこうお気に入りのカフェである。以前こちらの記事でも紹介した。
【かふぇ探訪】 [CAFE so what?] - 積読本を"昇華"させる日々を綴るブログと化した「日々是好日。」
今日もカフェラテをいただきながら、読み、書く。
ふたつの「みやこ」を舞台に織り成す、比較文化エッセイ
「住めば都」という言葉がある。3年前の春、極寒の冬の時代(受験期とも言う)をブレイクスルーし、あこがれの京都での生活が始まった。期待に胸を膨らませる反面、そこはかとない不安もつきまとう新生活は、たくさんの出会いと出来事とに埋め尽くされて色づけられていった。まさに、住めば都。昔はホンマもんの都であったわけだが、一庶民の僕からしてもここ京都は、とても居心地の良い空間となった。
それがまぁ、ここを離れるという話は何度か書いていることなのだけれども。この春から僕が住むことになる東の都は、ここ西の都とどんな違いがあるのだろう?興味がわいてきた。
「みやことみやこ」ですよ。「みやこときょう」じゃありません。
まずタイトルに目が行く。字面からして「都」の方が東京で「京」の方が京都かな。表紙右上隅に"Tokyo×Kyoto"って書いてあるしなぁ。でもまてよ、絵のほうは左が五重塔で右が東京タワー。名前の配置の流れからして絵の配置、左右逆じゃない?なんでクロスしてんの?とか思ったり。しかしながらこれが、本書でこれから繰り広げられる、東の都と西の都の文化の競演、比較文化論であることを示唆しているのだと・・・読み終えてから気づいたんだけど(真意は分からない)。
生粋の東京人である酒井氏が独特の視点から切り口を入れる東京-京都の比較文化論は、なかなかに新鮮。「大学」の章では東大と京大の、ライバル関係とは言えないまでも何か独特の対立構造だったり、「敬語」の章では、京都人がつかう「~はる」という語尾についての考察を加えたり。他にも「節約」「高所」「宿」「女」などと、興味深い視点からふたつの都への考察をエッセイ調で綴っていく。
とくに面白かったのは「贈答」の章。ちょっと社会学的な概念も垣間見えたので。
東京人にとっての贈答行為が自慰行為のようなものだとしたら、京都人の贈答行為はセックス、ということになるのでしょう。(p.64)
はい?
現在の東京人にとって贈答は、個人的欲求を発散するための一手段となっている。東京人にとって「誰かに何かをあげる」ということは、自らの"あげたい欲求"を発散させるためのレジャー行為で、「贈」した時点でその欲求は充足しているので、別に「答」がなくとも、それほど気にならない。
ほうほう
対して京都人は、奥ゆかしいきめ細やかな対人関係スキルを千年の昔から身体化してきたという歴史がある。京都人にとって贈答は個人的な欲求の発散手段ではなく、他者とのコミュニケーションの重要な一側面を占める。互いに交わす挨拶と同じ感覚で、贈答における相互の綿密なコミュニケーションが取り交わされるのだ。
なるほど
端的に言って、自慰行為よりセックスの方が面倒である。自分の快楽も大切だけれども、相手の充足にもまた最高の配慮を施さなければならない。しかしだからこそ、そうまでして大変な思いをしたその先に、互いが望むものを与え合うことができたならば、それはそれは幸せなことだろうと思われる。
まぁ京都人がそこまで考えてそうしているのかも、地域によってそこまでの違いが出るのかも分からないけれども、たしかに興味深い観点だね。
さて、「贈答」というキーワードは社会学ではどのように捉えられているのか。
「互酬性理論(reciprocity)」というものがある。簡単に言えば「人は他者から何かを与えてもらうと、何かを返したくなってしまう」というところか(いや簡単すぎんよ!)。日常生活でも多分に起こりうることだが、他者から何かを与えてもらってばかりいると、その人に「御恩」や「義理」を感じてしまい、心理的に服従している気持ちになる。これを解消するために人は、与えてもらったものを返そうとする。そうして社会的立場のバランスを取っている。
これを利用する視点に立てば、贈り手は受け手に対してある種の「権力」を手に入れることができるわけだ。
まぁその「与えるもの」が、作りすぎて余っちゃった芋の煮っ転がしだったり、誤って倒しちゃった自転車ドミノを一緒に直してくれたりとか、その程度のことならかわいいもんだけど、これが「お金」「情報」「社会的地位上昇のチャンス」とかだったりすると話は別物になってくる。こうしたものを与えられてばかりいる人間は、与える側の人間のつくりだす権力構造に飲み込まれてしまう。なんとも怖いお話だ。
受け取ってばかりではなく、それを用いて自分は何を与えるのか。自慰的に与えるのではなく、互いの幸せを想って与えることができるか。東京の地でもそれを実行し続けられる人間でありたいと、切に思うのであった。
【積読リスト】読了数:4/127
「オトナの世界」も「ほんとうの自分」も、街に出なきゃわからないのね
もさもさと、わた雪の降りしきる京都の朝。2015年の始まりも大変な大雪だったが、2月の始まりも雪とともに。目を覚ましてすぐに、「そうだ、金閣、行こう。」
京都に住んで早や3年が経とうとしているのにもかかわらず、京都の冬の代名詞である雪化粧の金閣を未だに拝んでいないとは何事か。明日があるさ、来年があるさ、金閣はどこにも逃げやしないさ焼け落ちない限りは、と先延ばしにしていたら、自分が京都を離れることになってしまうという。こうしちゃいられないと、市バス102号に飛び乗る。
雪のおしろいで立派におめかしした金閣は、まさに一見の価値あり。相当寒かったけど。これも感動の代償か。
せっかく早起きして街に出たのだからと、行ってみたかったスポットに足を運ぶ。二条柳馬場にあるコチラのカフェへ。
Cafe Bibliotic Hello! カフェ ビブリオティック ハロー!| Halo Galo ハロー画廊
美味しいカフェラテをいただきながら、今日も積読本を消化、否、昇華するのである("昇華"としたことにあまり意味はない。あえていえば、単なる読了された書物としてではなく、なにかもうひとつ別の次元のものとなって自分に還元されてくれないかなぁ。そういう意味で用いているつもり、ですが本来の正しい遣い方ではなさげです)。
官能的な、あまりに官能的な
独特の大人の雰囲気を醸し出す文体は、作者の人生経験から滲み出てくる"濃さ"を匂わせる。こちとら20代の学生、オトナのカイダンに足を乗っけたばかりじゃ、こんな妖艶でエロティックで情緒に溢れてる、と見せかけてグサリと暴力的でしれっと無機質な世界、わかってたまるか?
ーーと、淡く若々しい反抗心を抱いているからこそ、グイグイ惹きこまれる。いったい、この魅力は何なのだろうか。
山田詠美の作品は今までに『僕は勉強ができない』『風味絶佳』の2つしか読んだことはないけれども、いずれもグワッと惹きこまれる何かがあった。エイミーワールド、おそるべし。それにしても、オトナにしか分からない感情の機微とかを楽しむお付き合い、してみたいなぁ。まだまだ先になるのかな。いつか来るかも分からないそのときのために、エイミーワールドに翻弄される若い今を大切にしたいと思う。
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終わりのない「自分探しの旅」に終止符を打つ
かふぇ・びぶりおてぃっくはろー!を後にした僕は、二条通りを東へと歩を進める。今まで歩いたことのなかったこの道に、京都のもつ落ち着きを感じる。「落ち着いている」―それは包み込むような安心感でもあり、一方で物足りなさでもある。だからこそ、僕の視線の先には東京があるのかもしれない。
そんなことも、実際に京都の街を歩いたことではじめて分かったこと。いつでも、具体的な行動の中にしか「自分」は姿を現さない。部屋に閉じ籠もり書を読み漁ることばかりでは、自分のことなんかいつまでたっても分からない。
かといって、ここではないどこかに「ほんとうの自分」があると盲信し、終わりのない「自分探しの旅」を彷徨うのも、なんか違う気がする。ここではないどこかには、「ほんとうの自分」もいないし、自分がほんとうに愛せるものもないし、自分をほんとうに愛してくれる人もいない。さびしいようだけど、それが現実なのだろうと。
ジンメルによれば、この社会において「あるがままの個性」「あるがままの個人そのもの」などというものは存在しないらしい。人はカテゴリ化された他者の断片的な情報からその人を認識している。それら情報のカケラをつなぎ合わせることでは決して、「あるがままのその人」にはたどり着けない(「自己紹介」を思い浮かべると分かりやすい。「○○県出身、××大学の何年生、趣味は△△で、タイプの異性は~~で」という断片的な情報からしか、結局のところ僕たちは分かりあえていない)。
「あるがままの他者」が分からないのであれば、「あるがままの個人」どうしの付き合いもまた、叶わぬ夢となってしまう。しかしながら往々にして人間は、この世界のどこかに「自分をほんとうに愛し理解してくれる人」「自分を感動させてやまない出来事」「自分を真に活かせる生き方」があるのではないかと錯覚してしまう。そのために空虚な「自分探しの旅」を続けたり、他者との距離感がわからなくなり互いに傷つけ合ったりするのだ。
ただし、ジンメルはこうした「ほんとうの自分を探すこと」や「他者と理解し合うこと」を放棄しているわけではないだろう。ジンメルが提唱した社会理論のひとつに「相互作用論」というものがある。「人間と人間の相互作用が網の目のように張り巡らされることで、社会は形成される」といった感じの理論である。
この理論と、先述した話の流れからすると、ジンメルが言いたいことはたぶん、
「<いま・ここ>で生きなさい。それ以外の時と場所に君が望むものなんてありゃしない。<いま・ここ>で他者と関係を築いていくうちに、結果的に、君自身がそれを知ることになるだろう。」
ということになるのだろうか。
今じゃそこらじゅうで耳にする<いま・ここ>で生きる、なんてワードも、身に付いてなけりゃ何の意味もない。そう気づかせてくれるのも、書を捨て街に出た自分と、立ち止まって書に帰った自分の、<いま・ここ>での行動と思考なんだろうなぁ。
【積読リスト】読了数:3/127
「打倒・積読!」宣言
春から大学を休学して、東京に移住し、とある企業でインターンシップをさせていただくことになった。そんなわけで京都の下宿も綺麗サッパリ、引き払う用意をしなければならない。さきほど、2015年の暦も2月に突入した。この1か月の間に「断捨離男子」として大きな成長を遂げ、晴れてすっきり爽快なかたちで、京都を発ちたい。
そんな僕の断捨離ライフにおいて目を背けてはならないのが、大量の積読本である。この方たちを避けては通れまい。ここまで3年間の大学生活を通じて数々の本と巡りあってきた。人様から頂戴した本、古本屋で一目惚れした本、実家の書斎からかっぱらってきた本。それぞれの出会いは今でも思い出せるもの。ほんとに、いつどこで手に入れたものだとかは、けっこう覚えている。それだけ、本との出会いというものは、この上ない幸せなのである。
だがしかし、手に入れたときは「サァ読むぞ!」と息巻いているものの、時が経つにつれなんとなく読む気が失せてしまうこともしばしば。初めに出会ったときの感動はいったいどこへやら。「日々の忙しさ」などという幻想にかまけて、一向に手に取ろうとせず、また新しい本を入手してくる主人に、ほとほと愛想を尽かせているのではなかろうか。
これではいけない。仮にも、大学3年間をともに過ごしてきた「仲間」であるわけだ。これらうずたかく積まれた仲間たちの「累積の念」(訳:つべこべ言わずに早よ読めや)を消化せずに、東京へ行けるわけがない。そうだ、僕は、克たなければならない。自分に。そして、積読本の皆々様に。
てなわけで、積読を消化していくために、今日からとりあえず1か月間は読書記録としてこのブログを利用することにした。おおかた自分のため!!自分に打ち克つため!!!で、もし読んでくださった人のなかにひとりでも、何か得られるものがあったなら、それはそれは嬉しいことでございます。という営みを、していく、宣言。
※ちなみに、今回のプロジェクトの目的は「読書記録ブログをしたためることで、積読を消化する習慣を身に付ける」ことにあるため、上京までにすべての積読を消化することが目的ではない。また、積読のなかには、おおかた読んであっても最後まで読み終えていないものもある。今回は最後まで読み切ることをもって、読了とみなしたい。てか、積読本の冊数を改めて数えてみたら3桁の領域に到達した。ちょろっと全体に目を通してあとは手を付けないのが著者の読書グセなのか。そういう読み方もあるかも分からんけど、時間のある大学生活の今だからこそ、読み込めるだけ読み込んでおきたいもの。
御託は置いといて、早速1冊目。
東京で、チャンスをつかめ
冒頭で述べたように春から上京する僕にとって、「東京ってどんな街?」「東京でどんなことができるだろう?」ということについて考えることは、なかなか重要なのである。
東京。そこは、多様な人種、多様な価値観、多様な出来事がごっちゃ混ぜになっている、カオスな空間だ。多くの困難が待ち受けている代わりに、多くのチャンスもまた存在する。若くして状況を志す僕ら若者は、ここでの生活を最大限利用して、己の生き方をつくりあげていくことができる。
著者は、時間の大切さを説く。時間は、この世で最も貴重な資源であると。そして、若さとは有り余る時間の象徴である、とも。この時間を具体的な行動に充てることではじめて、アタマではなくカラダで物事を理解することができる。
具体的な行動の先に、感じたこと知ったことをまた、日々の生活に還元していく。そういう循環を生み出していきたいものである。
【積読リスト】読了数:1/127
「自分と向き合う」ことの功罪
Facebookとかでいろんなひとが「自分と向き合う」ことについていろいろ書いている。(僕のFacebookの友人にはそういうのが好きなひとたちが多い。ってか2回生後半あたりからなんか急激に増えた。笑 冗談抜きで。笑)
たしかにたしかに、自分と向き合うことは大切だと思う。けど、そこに執着しすぎて、Facebookに記事上げまくってるのに実際何も変わってないってひとも、いるのかもしれない。これは分からんけど。勝手な憶測だけど。
で、そうなっちゃうのはなんでなのかなって思ったら、まさに「執着」という点にあるのではないかなって。「自分と向き合う」という、そのことに「執着」してしまう。何でもかんでも、自分と向き合いきれていないことに問題の原因を帰着させてしまう。もしかしてそこに問題があるのでは?
思うには、どこまでいっても「自分」なんてもんは分かりっこないっしょ。あるところまで粘って粘って、「ふぅ、、、結局わかんねーもんだな、"おれ"って。笑」となっても、いいのでは?それは人間だから仕方ないのでは?
それなのに、「自分と向き合う」ことについて、あるときはあんまり思いつめたような投稿をしてみたり、逆にあるときは気楽にふるまって見せたり。そんなんずーっとやってる。そういうのがすごく目につく。なんか「ありのままで、自然に」って言いすぎるために、全然自然じゃないように見えてしまう。すごく、気になっちゃう。(あ、でもそれもそれで人間らしく思えてしまうなぁ。ああそうか、「人間らしさ」なんて曖昧な言葉に逃げるからダメなんだ。)
哲学者の永井均が本に書いてたことで、これは本文の文脈とは違う意味で引かせてもらうけど、
「水中で水を探したり、空中で空気を探したりすることに似ている」
その言説にのっかって「自分と向き合ってます!」的メッセージを書き連ねている人が、たくさんいる。それは僕の眼から見たら、暫定的な「自分」は、もうすでにそこにあるはずなのに、それには目もくれず「自分と向き合うのが大事だから!」って喧伝している。「本当の自分」はどこにもありゃしない、けれど今ここには「暫定的な自分」はたしかにある。それなのに、無いものを探し、あるものに気づかず、ただひたすらそれらを探すために、水中で水を探すように、空中で空気を探すように、必死こいて目を凝らしてる。
うーん、君はもう十分魅力的だと思うけど、そこまで君を駆り立てるほどの何かがあるんだね。僕はどちらかといえば君が自分と向き合ってあーだこーだやってることよりも、君が自分と向き合う必要を感じたのはなぜか、そしていまその行動に至ったのはなぜなのか、そのストーリーを教えてくれればそれで満足かなって、そう思っちゃう。
なんだか、ただの散文になっちゃったな。
ただまぁ思うのは、「自分と向き合う」ことに異常なまでに偏執狂的に執着してしまう風潮が、単純に、怖いなって思っただけ。なぜ怖いと感じるのか?といえば、それは僕自身が「自分と向き合う」ことを怖れているから、というのが筋だろう。それはたしかにあるけど、まぁこっちもこっちでそれなりに自分のことは考えている。恋愛関係とか、あまり乗り気でなくなってきた事業のこととか、将来の展望とか。そうした外的な出来事と、あとは最近読みまくってるいろんな本の内容を介して、自分のことをクソほど考えてる。嫌というほど見つめている。けれど、あんまり「自分!自分!」を押しすぎるのはどうも性に合わない。そこまで自分に固執していったい何になる??自分で自分に対して気味が悪くなってしまう。だから、怖いと感じるわけだ。
こんなことで「怖い怖い」と感じるような自分は、本当に小心者だ。でもまぁ、それでいいと思ってる。僕は僕で、今やりたいことをやって、それでもって、なんだかわからない・得体のしれない「自分」というものとの付き合いをやっていこうと思う。そう割り切れる点では、小心者でありながら、どこか楽観主義者なのかもしれない。そういうことにしておこう。
お読みいただきありがとうございました。
おしまい
「明日野郎はバカ野郎」・・・?
明日があるさ明日がある
若い僕には夢がある
いつかきっと いつかきっと
わかってくれるだろう
「明日がある」なんてこと、どこの誰にわかるだろう。
この平穏な日常も、いつ終わりが来るかわからない。
たまたま日本という国に生まれて、たまたま普通の暮らしに恵まれた。
その日常が突然終わる。
明日は来ない。僕の人生、これにて終了。
今日がその日。そんな可能性も、ないとは限らない。
おわりのその日はいつ来るのか。
それは誰にもわからない。
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「今日が人生最後の日だとしたら、私は今日する予定のことをしたいと思うだろうか」
スティーブ・ジョブズがスタンフォード大の卒業式で語ったスピーチの、有名な一節。
今日が人生最後の日だとしたら。
今あなたがやりたいことは、本当に心から望んだことだろうか?
たしかに、日々こうした問いかけを自分自身に課すことは、人生に大きな影響を与えそうだ。こういう意識でいることは非常に大切なんだろうということは察せられる。
ただ、それが自分にできるだろうかと考えると、ちょっと疑問。
ジョブズのように、「今日この日を人生最後の日だと思って、毎日を生きなさい」とか言う人、たーくさんいるけど、
残念ながら、今の僕にはそれが実感として摑めるような気がしない。
それはなぜかって言えば、多分だけど、「彼らとは、違う人間の、違う人生を歩んでいるから」だと思う。
僕はいま、自分自身の死を、人間のいのちを、リアルに感じることができていない。
子どものころ、親類の死を経験したときは、いのちって本当にあるんだなぁって感じだった。「大切なものは失くしたときにはじめて気づく」って本当なんだなって思ってた。けど、今はリアルに感じられない。
2度の大地震で被災したにもかかわらず、まだ生きてるってことは、それはそれで奇跡的なことなのかもしれない。けれども、あの2度の震災も、「今・ここ」では、僕に死を想起させるほどのインパクトを持ち得ていない。
つまり、今の僕は日常において、死というものをまったく意識しないままに生活しているということになる。
自分でも書いてて、ヤバいなコレ、って思うけど。
お前のいのちは当たり前なんかじゃねーよ、今生きてるのは奇跡的なことだよ、って一応わかっちゃいるけどさ。
それでも、みんなどこかしらそういうところを抱えているんじゃないかな、とも思う。当たり前のような日常の中に生かされていると、いつしかいのちの尊さが毒されてしまう。そんな感覚。
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「明日死ぬと思って今日を生きなさい」
そう自分に課して、その通りに生きられる人を、本当にすごいと思う。
けど今の僕には、その通りにできないなぁ、と思う。
「明日死ぬと思って…」なんて、そんなこと信じられるの、本当に死にかけたことがある人間にしかできないんじゃないか。いのちの在り処をリアルに感じたことのある人間にしかできないんじゃないか。
できる人間と、できない人間がいる。
とても、単純なことだ。
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「明日死ぬかもしれないと思う人間は、限られている時間を目いっぱい生きるんだ」
そんなことを言う人がいる。
でもそれは嘘だと僕は思う。
人は自分の死を自覚したときから、生きる希望と死への折り合いをゆるやかにつけていくだけなんだ。たくさんの些細な後悔や、叶えられなかった夢を思い出しながら。
この小説の主人公「僕」は、ある日突然、脳腫瘍の診断を下される。そして残りわずかな余命を宣告される。すると自分にそっくりの「悪魔」が現れて、あるゲームを持ちかけられる。世界から何かを消す代わりに、一日の命が与えられるというゲーム。大切なものをひとつひとつ消していくなかで、最後に「僕」が思うことは――
っていう感じの話。
上の引用が、僕の思っていたことを、それっぽいかたちで表現してくれている。
何でもない日常を享受していた者が、突如として苦悩のどん底に突き落とされて、自分のいのちをリアルに感じて、それでようやく「明日死ぬと思って今日を生きる」ことができる。
その変化は、デジタルスイッチのオンオフのようにパッと切り替わるのではなく、アナログな時間の経過のなかで徐々にもたらされるのだ、と。
あー、自分の抱えていたモヤモヤって、こういうことだったんかなって。
完全にスッキリとはいかないけれど、こういう考え方が自分にはしっくりくるかなぁと思った。
「全力で生きようぜ」ってメッセージが飛び交いすぎている気がする。僕の周りだけかもしんないけど。
そりゃあ人間、ひとりひとり違う人生があるから、死やいのちをリアルに感じられる人もいるんだろう。そしてそれを、日常の生の糧にできる人もいるんだろう。
けれど、それはあなたの事情であって。今の僕には、それを本当に感じることができないでいる。「あぁそうか」って物分かりよく、パッパッと全力スイッチをオンにできるわけじゃない。
そういう生も、あっていいんじゃないの。むしろ、あって当然だ。
「明日野郎はバカ野郎」とはよく言ったものだ。僕だって、明日があることを盲信せずに今日を全力で生きることを、自然にできる人間になりたいと思う。
でもそれができないってことがあっても、いいじゃんって思う。そういう立場にいるってだけの話じゃないのかな。
まぁそういうときもあるよねって話です。
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お読みいただきありがとうございました。
おしまい
ひとり旅で、ひとりごと。
「本を読みスマホを撫でる、頭でっかちで目の前のリアルが見えてない、それを賢い人間と呼べるのか」
「市井の人々の、なんでもない幸せを奪う権利は誰にもない」
「ずーっとひとり。自分のことばかり考えるかと思いきやふと浮かぶあの人の顔、あの人のこと。そういう人こそ自分にとって大切な人なのかもしれない。」
ひとりぼっちが寂しい人へ
故郷に戻っていた。
夏の帰省は10日ほど。
ゆったりとした時間を過ごすことができた。
実は今回の帰省、大切なことを気づかせてくれた。
深く、温かい人間関係
大学3回生にもなって10日間も帰省できるというのは、なかなか有り難いことである。
同級生は、バイトやらインターンやら実習やらで忙しい時期。
中にはもう社会人として働いている人もいるしね。お盆休みがあるだけ貴重なくらい。
その、貴重な貴重な10日間のなかで、僕は今回、いろんな人と再会し、いろんなことを話した。
地元の中学校の学習ボランティア。中学生と話した。
お盆参り。親戚の方々と話した。お寺の住職さんとも話した。
近所のチビッ子とも遊んだ。ホントにかわいかった。
小学校の同窓会。小学校、中学校卒業以来の人とも会えた。
高校の同窓会。友人、先生とも久々に話した。ま、こないだ成人式あったし、僕は帰省の度に高校に遊びに行ってるから、そこまで久々感はなかったけれども。ただ、卒業以来の友人とか、離任された先生とかとも話すことができた。
高校のクラス会とか、中学の友人と遊んだりとか。
母校の高校3年生に向けて、進路講演会とかもした。大学で何を学んでいるかとか、受験期に何を考えていたかとか。顔も知らない後輩なのに、とても熱心に話を聞いてくれるし、僕も無意識のうちに、この子たちのために与えられるものは与えたいという気持ちになっていた。
そして家族。普段は照れくさくて深い話もそんなにしないけど、今回はいろいろと話した。将来のこととか、親のこれからのこととか。まぁ、フランクに、けれど突っ込んだ話もしたりなんかして。
そういう、密な10日間を過ごしたわけだ。
自分もいちおう大学に入って3年目で、周りの友達もみんなオトナになってきていて、だから大人たちと話すことも、それなりに深い内容になってきた。
それぞれがそれぞれの道で感じていることを、受け入れて聴き入れて、その上で自分の想いを伝えあう。そういう会話ができるようになってきたんだなぁと。
深く、心の通った付き合いができる存在が、周りにたくさんいるんだなぁ。
その事実はホントに有り難いことだと、そう痛感した。
ひとりぼっちの寂しさ
ところが。
京都に帰る夜行バスの中で、なんだか落ち着かない。
いつもなら、一抹の寂しさに勝って、京都での生活の希望なんかが湧いてくる。故郷を後にするその背中を押してくれる。
はずなんだけど。
今回、正直に言って、めちゃくちゃ寂しかった。
これは、2年前の春に京都でひとり下宿をはじめたあの頃と、同レベルの寂しさだった。
なんでなんだろう?いつもは平気だったのに。
京都に着いてからも、何となく寂しくて、
たまらず友人を誘って甲子園に行った。そうでもしなきゃ、誰かといなきゃ、寂しくてたまらない。そんな感じ。
甲子園の翌日は誰とも会話しなかった。コンビニ店員に「はい」と受け答えするくらいだった。もうそこで、寂しさがピークだった。
自分は、孤独に強い人間だと思っていた。
いや実際は、「孤独に強い」というよりも、「馴れ合って依存し合う関係を軽蔑していた」という方が近いかもしれない。
そういう共依存の馴れ合い関係はお断り。おれはひとりでも満足しているし、孤独の時間を楽しむことができる人間だ。
そういうイメージを勝手に作り上げていた。
それが、簡単に崩されたわけだ。
故郷に帰省して、心の通った人たちの温かさに触れて、その優しさを存分に浴びた。
やっぱひとりじゃ生きていけないんだな、と、無意識のうちに痛烈に感じたのだろう。
心の通った関係、自分が好きな人たち、そういうものが常にそばにあってほしい。そういう欲求と、「いや、俺は孤独を楽しめる人間だからそういうのは要らない」っていう強がりとが衝突して、結果としてバカみたいに寂しさを感じるところにまで至ったのかなぁと。
まぁ昨日今日はそれを取り返すくらい、いろんな人と喋りまくってきたので、寂しさもだいぶ落ち着いてきたんだけど。
あの寂しさがヘンな形で顔を出すと厄介になりそう。寂しさを解消するためだけの共依存の関係は、ホントに厄介。相手を消費財としてしか見ていない。自分の寂しさを紛らわすためだけの。そんな関係、本当のところで愛がないから、どこかで破綻する。どちらも相手に裏切られたように錯覚する。誰も救われない。
そういう関係を生まないためにも、孤独の時間と交流の時間とは、バランスよくとっていかなきゃいけないんだろうなぁ。
寂しさの効用―ひとりぼっちが寂しい人へ
「ひとりぼっちの寂しさ」をちょっとだけポジティブに捉えてみよう。
もしもこの世界に自分ひとりしか存在しないとしたら、寂しさを感じるだろうか?
もちろん、はじめっから、この世界に自分ひとりだったら。
当然、寂しさは感じないわけ。はじめからひとりだけなんだから、「何がひとりぼっちなのか」すらも認識できないだろう。
寂しくないんだ、やったー!…そう思う?
じゃあ、他の感情はどうだろう。
誰かと喜びを分かち合ったり、感動の涙を流しあったり、喧嘩したり慰め合ったり笑い合ったり、、、
そういうことも、自分ひとりだったら、ないわけ。
そこにあるのは「無」しかないわけ。
じゃあ、いまあなたが感じている「ひとりぼっちの寂しさ」ってのは、
誰かがいてくれて、はじめて感じられるものだ。
誰か大切な人がいて、そう感じられるんだ。
…いや、逆かもしれない。
自分に寂しさを感じさせてくれる誰かは、かけがえのない大切な存在である。
私に、そういう感情を与えてくれるわけだから。
本当に自分ひとりだったら、その感情さえ無いわけだから。
つまり、
自分がひとりぼっちで寂しいと感じられているうちは、周りに大切な人たちがいてくれている。
大切な人はそこにいる。そのことを忘れないために、寂しさという感情は存在するのではないか。
そんなふうに考えてみたらどうだろう。
お読みいただきありがとうございました。
おしまい
あの日から7年
Facebookからの転載です。
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【あの日から7年】
2014.7.16
新潟県中越沖地震の発生から7年が経ちます。
自宅は全壊被害を受け、1か月の避難所生活、その後1年5か月にわたる仮設住宅生活を強いられました。
未曽有の大災害のなかで、数多くのものを失った反面、気づけたこともあります。
儚い命を燃やし、生き残ろうとする人間の生命力は強い。
奇跡的に助かった命を何に遣うのか、その問いかけにひとりひとりが向き合う必要がある。
このところ自分の生い立ちを振り返ることが多かったのですが、震災が大きなターニングポイントになったことを改めて自覚しました。当時感じていたことに加え、いま思うことは色々とあります。
今朝、目を覚ましたときに、「あっという間の7年だったな」と感じる自分がいましたが、「あっという間」に感じるということは、自分の中でも着々と記憶の風化が進んでいるということです。歳を取ると時の流れを速く感じるのと同じで。関心や新鮮味が薄れれば薄れるほど、震災の記憶は人々の心から姿を消します。
思い出したくない記憶も、震災のおかげで気づけたことも、そのすべてと共に生きていく覚悟が要るのでしょう。けれどもそれは、無理して抱え込むのではなく、いつでもそばにあるものとして受け容れるだけでいいのでしょう。
KOKIAの『「私にできること」』には、多くの被災者が励まされました。全壊した家から瓦礫を運び出すとき、いつもラジオから流れてきた曲。柏崎・新潟の人にとっては大切な曲だと思います。
久々に聴いてみました。心に深く沁み入る、美しくもしなやかな歌声です。
【誰も知らない泣ける歌】KOKIA(コキア)「私にできること」感動の誕生秘話 - YouTube
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ほんっとのほんとに当たり前のことなんだけど、
誰しもひとりでは生きていけないんだよね。
震災のおかげで、その事実を心の奥底にまで突き付けられた。
日々激変していく現代社会の波の中で、そういう事実を忘れがちになるけど、
やっぱり僕らは、ひとりひとり、こうした経験を心の奥底に持っていて、
大切なことが蔑ろにされそうなとき、それが疼くんだろうね。
「お前、あのときのかなしみを忘れてないか」って。
「お前の、あのときの思いはどこへいったんだ」って。
そういうふうに、僕らを導いてくれる。
だから、あの凄まじい経験は、きっと無駄じゃなかったんだろうな。
どんな出来事も、たぶん全部つながっている。
全部が僕をつくり上げているってのは、そういうことなんだろうな。
お読みいただきありがとうございました。
おしまい
予定通りにいかないからこそ、面白いんだろ、人生は。(ぶっちゃけ夏休みの予定狂いまくってそこそこ涙目わろえない)
こんばんは。
みなさんは夏休みの予定、もう決まってきた頃ですか?
今年は僕の学年が3回生ってことで、周りも実習やら就活やら何かと忙しそうでね。
まぁそんな忙しい中を縫って、お楽しみ企画を遂行しようとしてるわけですね。
ただまぁ、そういうときに限って、どうも予定がうまく合わない。こう、絶妙なタイミングで、合わない。
そういう悔しい思いをしたことのある人って多いと思います。
僕もそういう人間の一人で。
前々から予定してたことが、なんか知らんけど計画倒れしていく。
たとえばね、
二人で飯行きましょうね!って、昨年の6月から約束してた人がいまして、昨日(木曜日)の晩に会う予定だったんです。ほんと、二人きりでじっくり話すのなんていつ振りだよっていう。めっちゃくちゃ楽しみにしてたのに、台風が来るということで延期に。。。んで、蓋を開けてみれば、何のことはない穏やかな天候。台風ね、来るなら来るで仕事してね、うん。
他にも、京都の友だちを連れて帰省旅行したり、逆に地元の友だちが京都に遊びに来てくれたりなんてことを、それはそれはんもう楽しみに計画してたのに、なんかどっちもオジャンになっちゃいそうな感じ。ほんっと、人の予定を狂わす才を持って生を受けたかのようですわ、僕は。
とはいってもね、
そういう、運命の気まぐれにいちいち一喜一憂していてはアレだと、人生つまらんだろうと。そういう風に思うようにしてるんですよ。人間万事塞翁が馬、予定通りにいかないから面白い。予定調和の人生じゃ、それ、「生きている」って言いませんよね。ただ「死んではいない」って状態で。「存在している」ことと「生きている」ことは全く違うって、なんかどっかで耳にしたことがある気がするぞい。
てなことを、この本を読みながら考えていました。
- 作者: ロジェカイヨワ,多田道太郎,塚崎幹夫
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1990/04/05
- メディア: 文庫
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ロジェ=カイヨワ、『遊びと人間』。
以前、「遊びの社会学」という分野にちょーっと関心がありまして、少しかじる程度に読んでみたのです。
ホイジンガという人が、「人間はホモ=ルーデンス(遊戯者)である」と唱えたことを、世界史だったか倫理だったかで習ったことがあるって人もいるかと思います。インパクトあるよね、ホイジンガって。
(こういう、ホイジンガさんとかカイヨワさんとかに代表される、遊びの人類学、遊びの社会学にはじわじわ可能性を感じています。というのも、僕が専攻するつもりの労働社会学とは反対の概念だから。「仕事」と「遊び」って、逆の概念として用いられることが多いです。生活における立場とか、責任の有無とか、そういったところで対になる捉えられ方をされている...と認識しています。不勉強なもので、あまり自信はありませんが。)
んで、この『遊びと人間』にはこういったことが書かれている。
どういう人を立派な遊戯者と言うのか。それは、次のことの分かっている人だ。不測の事態を、好んで求めたとは言わずとも、進んで受け入れてきたのだから、不運に文句をいったり、不幸を嘆いたりする権利は自分にはない、ということの分かっている人である。
立派な遊戯者とは、一言でいえば心の平静を保って遊びの領域と生活の領域とを取り違えない人のことである。たとえ負けても、自分にとっては遊びは遊びだ、という態度のとれる人のことだ。
つまり、遊びは気晴らしであって、これを大層に考えるのは高貴な魂にふさわしくなく、偶然の仕業に打ちひしがれるのははしたないと考える人のことである。(pp.299-300)(改行、太字はブログ著者による)
カイヨワさんは、遊びの定義を6つくらい挙げて、遊びの種類についても体系化していた。それについてはここでは触れないけど、遊びの領域と生活の領域は分けて考えていたみたい。
まぁ彼の解釈とはちょっとずれるけど、僕は上の引用から、「人間万事塞翁が馬」みたいなことを想起した。
とりあえず、「人生」というある種の「ゲーム」の上では、何が起こるか分からない。だけど、そこが面白い。
いや、たしかにね、夏休みの予定、もっと計画通りにいけばそれ相応の楽しみがあったと思うよ?めーっちゃ楽しかったと思う。それは間違いないと思う。
けどもね、人生における予想外の番狂わせを心から楽しめるようであれば、まぁ大抵のことは苦にせず生きていけるんじゃないかなぁと。んで、これは別に、ストレスフリーな生き方を推奨しているわけではないですよ。不測の事態が生じたときに、人生を暗くするネガティブなストレスとして受け取るのか、それとも、人生にスパイスを加えるポジティブなストレスとして受け取るのか。その違いで全然違ってくるんじゃないかなって。
うん、そう思いました。
ただまぁ、思えども思えども、予定は計画通りいきません。
鷹揚に、寛容に、カラッとした広い心持ちでいきましょて。
はい。
お読みいただきありがとうございました。
おしまい
良い子は寝ましょう。
こんばんは。
漢検勉強してて面白い言葉を見つけましたよ。
「円木警枕(えんぼくけいちん)」
(意味)苦労して懸命に勉学に励むたとえ。また、物事に精励して寝る間も惜しむこと。眠り込んでしまわないように、すぐ転んで目が覚めるようにした丸木の枕の意から。▽「警枕」は眠り込まないようにした枕。軍中などで使われた。
(故事)宋の司馬光は学問に励み、眠り込むと枕が転がってすぐ目が覚めるように、小眠するのに丸い木を枕にして勉学に励んだという故事から。(范祖禹「司馬温公布衾銘記」)
とのことです。出典は『資治通鑑』ですか、日本史懐かしい。
こんな言葉があることとか、司馬光にこんな故事があることなんて初めて知った。
漢検の勉強してると、普通に生活してるだけじゃ一生知ることのないような言葉とも巡り逢うことができますね。
まぁ何が言いたいかって言うと、
勉強するなら無理せんと、ちゃんと寝ろよ。
ってことですね。
「蛍雪の功」という言葉にも見られるように、刻苦勉励を是とする言葉は昔っから、寝る間も惜しんで超絶苦労して・・・ってのが美徳とされるような感じがありますよね。
たしかに、それだけひとつのことにコミットする姿勢は、賞賛に値すると思いますわ。「生きてる」って感じするだろうし。
まぁただね、「円木警枕」をそのまま自分に当てはめようとするのはどうかなって。睡眠時間を削ってまで勉強するかと。効率も考えないと自分のものにならないよと。
てなことをね、思いながらね、こんな時間まで漢検とか勉強してるからね、自分ね。思いっきりブーメランね。円木警枕ブーメランっす。つらいっすわ~。まぁね、僕だって好きでこんな夜更かししてるわけじゃないんですよね。最近夕方になるとありえんくらいの睡魔に襲われて寝ちゃうんすよね。今日なんかも17-22時で寝ちゃってたしね、ヤバいねこれ。夜とか絶対寝れないよね、はぁ。いやてゆーかね、なんで夜更かししてまで漢検の勉強せなあかんねんと。漢検の勉強のために夜更かししている時間をつかって、寝る。そういう考え方もできると思うんですよ。だって考えてみてくださいよ。ブラジルの人、漢字知らなくても生きていけるっしょ?結局、意識の問題なんすよ、意識の問題。本気で寝ようとしてない自分を変えろって話っすよ。本気で休めよって話なんすよ。「本気で休め」って言葉の矛盾感パないっすね、これは。僕は高校生のころから多用してますけどね、本気で休むという概念。これいいっすよ。本気で寝にいくと世界変わりますよマジで。ってな感じで頭がフル回転とまらない床に就いた瞬間とまらないわけでこころに移りゆくよしなしごとのひとつひとつに相手をして疲弊MAXそろっと寝よかってときにゃ朝日はのぼり鳥さんちゅんちゅん朝刊配達おばちゃん毎朝バイクでブンブンありがとう世界におはよう僕は寝るよおやすみ
失礼しました。
おしまい