【雑感】「ゆとり世代」と「若者論」について思うこと
お久しぶりです。
1年以上ぶりでございます。はてなにも戻ってきて、ついでに1年間の休学&東京生活も終えて、京都に帰って参りました。目下、就職活動中ですが、息抜きとして、いろいろゆるゆると書いていこうかと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。
先ほどFacebookを眺めていたら面白そうな記事があったので、それについて少しばかり雑感を。
「ゆとり世代」と「若者論」について思うこと
「ゆとり世代」の学力が高いかどうかは実感値としてはよく分からないところだが、国際的な調査によれば日本は高ランクに位置するのは間違いない。
でも先輩方が「ゆとり世代」に苦言を呈したくなるのは、学校のお勉強の出来云々よりもむしろ、いわゆる「非認知能力」(自制心があるかとか、相手の気持ちを慮った発言ができるかとか、主体的に創造できるかとか。カチッとした定義は置いといても、多分そんなところだろうと認識している)の部分じゃないのかなって思っている。
じゃあそこが弱いとして「ゆとり世代」を一括りに揶揄するのも、なんだか変な感じがする。
そもそも、個性尊重を謳って実施されてきたゆとり教育なのに、その結果を「ゆとり世代」として括ってしまうことによる没個性化は、矛盾じゃないかな。
(さらに言えば、77-78年の学習指導要領改訂によって、小学校では80年度からゆとり教育がスタートしている。現代の若者に苦言を呈している先輩方がいらっしゃるとすれば、それもまた(性格は違うとはいえ)当時のゆとり教育に浸かってきた世代には違いない。)
話は変わるけど、「最近の若者は…」という若者論・世代論はいつの時代も繰り返すようだ。もし自分がオジサンになったときには、その頃の若者たちの在り方は、自分たちの施した教育の結果であるのだと素直に認めたい(些かおこがましいことかもしれないけれど)。
そういう意味で自分は将来、教育に対する責任感を持って若者たちと接したいな。昨年の東京生活で、行きつけの居酒屋やバーのカウンターで出会った先輩方は、こんな若造の話を、内心「青いなぁ(笑)」と思いながらも、真剣に聴いてくださっていたのだと思う。そういう優しさのある大人になりたい。
一方でにもあるように、若者サイドも「ゆとり世代」という枠組みを使って自己を表明するのは、ちょっといただけない。「ゆとりですがなにか?」と居直るのではなくて、自分は何者なのかを自分の言葉で表明していかないとなぁと。「ゆとり世代」の上にあぐらかいてちゃ、いつまで経っても大人におんぶにだっこの構造から抜け出せないや。
ざれごと
東京に移り住んですぐ、下宿近くの大衆居酒屋へと足を運んだ。
大衆居酒屋は、好きだ。
若者向けチェーン店に比べて若干値段は張るかもしれないし、フードもドリンクも種類は劣るかもしれないが、それでも昔ながらの店のもつあたたかさが勝る。常連さんや女将さんのあたたかさは、心に沁みる。
そういった人たちとの偶然の出会いの貴重さは、何物も代えられないのだ。
その夜、隣に居合わせたとあるサラリーマンとずっと話していた(「俺のこたぁ"いっちゃん"と呼んでくれい」と話していたので以後、いっちゃんと呼ばせて頂く)。
いっちゃんは、一言でいえば「苦労人」だった。
人のプライベートな話をこのようなところに晒すことはしないが、まぁ若いころからそれはまぁ色々やらかしていた。
しかしながらそれは、いっちゃんの(もっと言えば、いっちゃん一族の)掲げる「本人主義」の賜物であった。
「当人が、そのとき、そこでやりたいことを、やる」
それだけである、と。
(それが家訓になってるような家って、単純にすごいなぁと思うんだ。だって普通は親の意向とか心配とかあるだろうし、「やりたいようにやらせる=自由」と「面倒を見ない=放任」とは、紙一重にして天と地ほどの差があるからだ。)
いっちゃんは、日本が高度経済成長の真っただ中にある時代に生まれ育った。
当時の大人たちと言えば、「男は仕事、女は家事・育児」という性別役割分業を引き受け、世界に名だたる経済大国ニッポンを造り上げるために、日々奔走していた。
いい大学を出て、いい会社に入り、いい家庭を築く。
当時の日本の成長は、こうした一面的なライフコースへの信奉と邁進が背景にあってこそ支えられていた。
そんな時代において、いっちゃんの家では「本人主義」が貫かれていた。
世間じゃどうこう言われるかもしれないが、お前たちの考えるやりたいことをやれ、と。
それって単純にすげぇなぁと思った。よくぞその時代に、そんな考えができたなぁと。
いっちゃんは自分の子どもにも「本人主義」で向き合った。
その結果またこれも、波瀾万丈な人生が待ち受けていたっぽいけど、なんだかんだ楽しかったそうだ。
僕も自分の子どもを授かったときにはその子に、「自分のやりたいことを存分にやっていいんだよ」と伝えてあげたい。というか、そういう生き方を背中で見せられるようにしたい。いっちゃんみたくね。
ただそれには、いくつかのクリアすべき課題がある。
まずは、目の前の子どもを愛することだ。信頼することだ。
子どもが、「自由」を謳歌するか、「放任」に溺れるか。そこにかかっていよう。
それにはまず、自分が自分を愛していないと、お話にならんのだろうなぁ。
いっちゃんだって、僕に話をしていたのは、「俺が話をしたいから」というだけであって、説教よろしくご高説を垂れてやるなんてつもりは微塵もないわけだ。
(不思議といっちゃんの話は気持ちよく聞けたが、これが他の酔っぱらいだったらウザいと思うわけで、まぁ話の内容と話し方と話し手の人柄と、あとは聞くこちら側の心持ちによるのだろうね。)
とまぁ、そんなところでも「本人主義」が出てくる。それはとことん自分を愛しているからこそだ。自分を信じているからこそだ。
ただそれが、積極的に他人を傷つけるような行動指針になってはならないだろう。自分を愛せる人は、他人を慈しむことの喜びも分かるのだろう。
次には、他人を養う力が必要であるということ。
好きなことを好きなだけやってよいというのは、それだけお金もかかる。社会で生きていくうえで、それは避けられないことである。
もちろん、必要最小限の出費で済ませられること(外で勝手に遊ぶ、家事のお手伝いを通じて好きが育まれる、とかさ)はそれでいいから、
それ以外にかかってくる諸々の出費をどれだけ用意できるか、だよなぁ。
こないだ自分の親とも話したけれど、ひとりの人間を成人させるまでにどれだけ大変なお金がかかったか、というのがね。なかなか痛切に、ささった。
そういうところまで、ふわっと、かつじっくりと、長い目で考えておかないとなぁと、そう思うのだ。
いっちゃんも言ってたけど、「長い目で人生を見る」ことの大事さが、ふつふつと。
生き急ぎたくないなぁ。
はぁ。
ざれごとでした。
【問題】昇華していくつもりだった積読本を9割ほど失った著者の気持ちを述べよ。
カーチャンは強い。
カーチャンは強い。
(大事なのでもう一度)
カーチャンは、強い。
ウチのカーチャンは自他ともに認める掃除好きであり、モノが溢れ気味な実家での断捨離を断行するのが日々の生きがいである。
カーチャンは、自身のストレス解消と家族の居住空間の美化を一挙に担う存在である。
そんなカーチャンに対しトーチャンは、基本的にモノを増やす傾向が大きい。
3日に1冊以上のペースで読破していくペースを何年も保っている読書家であるトーチャンを素直にカッコイイと思うのだが、いかんせん書籍が家にたまることが難点である。
トーチャンの好きにさせていたら確実に我が家は潰れる(本の重みにより)(物理的に)。
そのためカーチャンが居なければ、確実に我が家は崩壊する。
先日、そんな両親が僕の住む京都の下宿にやってきた。
主に息子の生存確認と、引っ越し前の下宿の大掃除と、プチ京都観光が目的である。
部屋に足を踏み入れるなり、カーチャンの断捨離センサーが反応する。
カーチャン「あなたコレ使うの?え?分からない?使わないかも?んじゃ、ほいっ(京都市家庭ごみ収集用指定燃やすごみ用45L袋がガサゴソ唸る音)」
すさまじい勢いである。それはすさまじい勢いで、みるみるうちに部屋がきれいになっていく。
僕は内心、はらはらしていたのである。
この128冊の積読本たちが、いったいカーチャンの断捨離センサーに引っかからないことがあろうか、いや、ない、それはムリ(反語)と。
恐れていた事態はやはり起こった。
カーチャン「あなたコレ、どんだけ溜めてんの!!!もう、こういうところばっかりお父さんに似て。。これ全部引っ越し先に持ってくなんてできないよ?初日から部屋埋めて生活できなくしてどうすんの?ハイ、要るものだけ分ける分ける。ちゃっちゃとやる~~~」
大型の断捨離案件をゲットした彼女は、御機嫌も甚だ上々のようだ。
僕としては、ううむ、なんだか複雑な気分である。
そもそも、積読本をすべて読破することが今回やっていることの目的ではない。
積読本を消化/昇華していく過程をアウトプットすることで、読書の習慣または読書のしかたを自分なりにデザインしていくことこそが真の目的だった。
なるほど、こうしてアウトプットの機会を設けて読んでいると、今までよりも深めの読みを楽しむことができている。
しかも、なんだかすべて読破したいような気にもさせられてきている。息の長い趣味を見つけたいと大学入学当時から思っていたので、積読読破なんかぴったりじゃないか。
とか思っていたけども、負けた。
カーチャンの「断捨れ」オーラに押し負けた。
そもそも128冊そのまま持っていくとか、金もかかれば置き場もない。厳選したモノに囲まれる生活の楽しみをだんしゃりばんばん*1の回で味わったのであるから、やはり本についても同様の態度を取って然るべきではなかろうか。そう判断した。
断捨離後の厳選書籍ラインナップは以下のとおりである。
まぁこんなもんじゃなかろうか。
人生訓、自己啓発系が数冊。
ワーク・ライフバランス、労働系が数冊。
小説が少々。
申し訳程度にビジネス書も加えて。
あとは人文・社会科学系。
そんなところでまとめておいた。
ううん、でもやっぱりスッキリしきらないのは、読破してあげたいという気持ちが残っているからだろうか。
帰省の度に数冊ずつ持ち帰って、機会を見て昇華していくようにしようか。
うむ。
長く深く付き合うほうが心地よいのは、人も本も同じであるね。
※大量の積読本は捨てたわけではなく、実家に一時保管しておくこととなる。では実家の断捨離事情はどうなるのかというと、、、ね。
これからも人間でいたい僕は、怒るのをやめようと思う。/アルボムッレ・スマナサーラ『怒らないこと』
怒りとは何だろうか
怒りは毒である。
怒りは人間の内部から生まれる毒である。
それは例えるならば、火である。
シヴァ神の纏う火は、すべてを燃やし尽くす。
(パズドラの話じゃ、ないんだぜ。)
火は、つまり怒りは、触れるものすべてを燃やし尽くす。
でも、火がものを燃やす前に燃えてしまっているものがある。
それは、火を纏う自分自身だ。
何かを壊す前に必ず、自分が壊れていく。
恐ろしいことである。
(「怒」と「恐」って、カタチ似てるな。当然か。)
そんな怒りをずっと持ち続けてみよう。
物事は思い通りにならないまま、ただ自分だけが壊れていく。
それはだれにも止められない。
怒りを捨て去ることを、自分が選択しない限りは。
怒りの原因は、「我=エゴ」
怒りを生み出すものは何だろうか。
それは、エゴである。
「私」「オレ」という固定概念のことである。
「私は○○だから××しなければならない」
そんな妄想を抱くところから、世の中のすべての問題が生まれると言っても過言ではない、らしい(スマナサーラ曰く)。
私は社長だから、私は親だから、私は年上だから。
そうした無意味な固定概念は、時に予想もしない形で裏切られる(経営について進言した平社員に怒る社長、言うことを聞かない子どもに怒る親、年下の態度に怒る年上)。
これらの怒りはすべて、エゴがなければ存在しなかったはずである。
怒りを捨て去ることは、エゴのしがらみから脱却することに等しい。
ではどうやって、エゴを捨て去ればよいだろうか。
なかなか大胆な方法がある。
エゴを捨てるといっても自分の名前まで忘れてしまう必要はないのです。・・・でもそれ以外は何も持たないと決めてください。たとえば私が「あなたはどなたですか」と聞いたら、「田中です」、それだけで結構です。そうたずねられて、「私は何々、こうこうこういうことで、これだけのものである田中だよ」と言うようであれば、その人はその分だけすごい苦しみを背負っているのです。(p.162)※太字はブログ著者による
ううむ。なかなかだ。
でも、そうしたほうがスッキリするなぁという印象を抱く。
エゴにも、「だんしゃりばんばん」*1なのである。
自分を表明する言葉も、なるべく少なくしたいものである。
「正しい怒り」など存在しない
えー、まじかよ。
仏教によれば、この世に「正しい怒り」など存在しないという。
でもさ。
怒りと立ち向かう、怒りと戦うなど、こうした感情は存在してもいいのではないか。
それもNGだ。
悪を倒すための正義ですら、そこに怒りの感情が芽生えてしまう。
そもそも怒りの感情があるから、わざわざアンパンが空を飛びまわって町中をパトロールしてバイキンを懲らしめる、などという奇怪な光景が生まれるのだ。
(よい子のみんなは真に受けないでね。)
「正しい怒り」など存在しない。
存在してよいのは「間違ったことを冷静に指摘する」ことである。
怒らなくとも、間違ったことを冷静に指摘すればよいだけの話である。
そして指摘された人は、つまらぬエゴに惑わされずに、「指摘してくださってどうもありがとうございます」と受け入れればよいだけの話である。
でもちょっと待てよと。
怒りも、人間のもつ自然な感情表現じゃないのか。
自然な感情を自由に表現して何が悪い。
少なくとも僕はそう思った。
強く、そう思ったのだ。
これに対する仏教の返答はこうである。
怒るとき、我々は瞬時に「完全に最低な無知な人間」になってしまいます。・・・怒る回数が増えれば増えるほど、その人は怒りそのものになってしまいます。それはもう、人間ではなくただの「肉の塊」が動いている状態です。・・・目の前で、人間性を失った怒りの肉の塊が動いたり、歩いたり、しゃべったりしているのは本当に怖いのです。つまり、「怒りの人間になる」ということは、もう人間を捨てたことです。そのあとには、何の成長も何の発展もありません。(pp.88-90)※太字はブログ著者による
うええええ。
怖すぎる。
「怒り」はもう、人間の感情ではないのだね。
ときたま、「あーぁ、人間やめてぇなぁ」と思う僕でさえも、肉塊に成り下がるのはちょっとゴメンだ(生まれ変わるなら、イルカか、セミくらいにしときたい)。
小心者の僕はここで、怒ることを放棄しようかなと真剣に検討するのであった。
おわりに
この本の内容を本当に理解することは、とっても難しい。
もし、何かを「本当に理解する」ということが、「知識を、自らの体験と結び付け、ひとつの知恵として会得する」ことを指すならば。
それほどに「怒り」と向き合うことは、ひとりの人間の全人生を懸けて取り組んでも余りある、終わりのない旅路を行くことが容易に想像できる。
果てしない。
果てしない営みなのだ。
それでも、だからこそ、その一歩を踏み出そうと思う。
【積読リスト】読了数:11/127
だんしゃりばんばん/やましたひでこ『不思議なくらい心がスーッとする断捨離』
きゃりーぱみゅぱみゅ - にんじゃりばんばん,Kyary Pamyu Pamyu - Ninja Re Bang ...
しゃりーぱみゅぱみゅ『だんしゃりばんばん』
※にんじゃりばんばんのリズムでお楽しみください
爽やかに ポイして
だんしゃりばんばん
なんだか だんしゃりばんばん
「もっ たい ない」悪魔ささやく
どんだけ だんしゃりばんばん
習慣を変えたら 清潔が日常に
どうやって だんしゃりばんばん
愛せよ だんしゃりばんばん
凛 凛 凛
消えないメモリー
こんもり 積み上がり
部屋を埋めるのは にんにんにん
ゴミだけだから
一応解説すると
〈爽やかに ポイして〉→「うじうじせず、爽やかに捨てよう」
〈「もっ たい ない」悪魔ささやく〉→捨てるときには「もったいないんじゃないの?」とか「いつか使うかも?」という悪魔のささやきが聞こえるが、ガン無視の方向で。今使うか使わないかを第一の基準にすること。
〈習慣を変えたら 清潔が日常に〉→使うモノだけ手に入れる。使わないモノは捨てる。この習慣が身に付けば、自分の人生にとって大切なモノだけに囲まれて暮らすことができる。その結果として、居住空間は整理整頓され、清潔を保つことにもつながる。
〈どうやって だんしゃりばんばん 愛せよ だんしゃりばんばん〉→断捨離はどのように行えばよいか。その根本にあるのは、愛である。今まで使われてくれたモノたちへの感謝のこころ、愛情を惜しみなく注ぎながら捨てることで、モノたちも安心して成仏できるというもの。そのほうがモノにとっても断捨らー(断捨離実践者)にとっても、よいよいなのだ。
〈消えないメモリー〉→お誕生日にもらったお手紙、元カレからのプレゼント、青春を捧げたあの日のユニフォーム。。。思い出の品は人それぞれにある。そうしたモノたちを手放すのは、与えてくれた人や頑張ってきた自分を無下にするように思われるかもしれない。しかしながら、大切なのはモノ自体ではなく、気持ちなのだ。手紙にしろプレゼントにしろ、モノは気持ちを伝えるツールでしかない。大切な気持ちを思い出したら、そっと、且つしっかりと胸に刻んで、感謝の心とともにいざ捨てん。メモリー(思い出)は決して、消えないのだから。
〈部屋を埋めるのは にんにんにん ゴミだけだから〉→ひたすらに居住空間を埋め尽くすだけのモノは、単なるゴミである。今ここで自分が使うモノだけに囲まれた暮らしは、モノたちそれぞれにあるべき場所を与える。あるべき場所に置かれたものは、その本来の輝きを見せる。あるべき場所も分からず真に有効な使われ方もせず、ただ空間を埋め尽くすだけのモノは、泣いている。それはただのゴミだ。モノをゴミにせず、自分の大切な仲間にすることができる人は、自分を大切にする人だ。自分を大切にできているからこそ、自分に必要なモノをきちんと判断し選択できる。それは人間関係や自分の人生の岐路における選択をも、左右しかねない重要な要素である。断捨離を断行し、すっきりはっきりくっきりとした生を生きようではないか。
【積読リスト】読了数:10/127
想像的な創造のうちにこそ、幸福はある/三木清『人生論ノート』
死、幸福、習慣、嫉妬、成功、偽善、希望、個性などなど。23の議題について、三木の鋭い哲学的洞察が綴られている。
これら小論がはじめて『文学界』に寄稿されたのは昭和13年のこと。今は亡き僕の祖父が、まだ生まれていない昔のことである。
そんな時代に書かれたものが、現代を生きる僕の生活にこれほどの気づきを与えるとは。いやはや、ただただ「すごいなぁ」としか言いようのない(なんてボキャ貧な。三木の流麗な筆致に感化されたいところだが、その読後感に気圧されて何とも陳腐な表現しかできないことを恥じたくなる)。
幸福について
幸福について考えないことは今日の人間の特徴である。(p.15)
古今東西、本当の幸せのかたちを探す旅に人々は魅了されてきた。あるいは、思い悩み、囚われてきたというほうが適当か。
個人的には、そんな旅には実際的な意味はないだろうと思ってはいるし、そうした世間の風潮には些か辟易してきたところでもあるのだが、それでもやはり脳裏をよぎるのは「いかに生きるか」であり「僕にとっての幸せとは何か」であるのだ。今欲しいのは、そうした事柄に対する「答え」ではなく、ひたすらに続く「問い」なのかもしれない。
健全な胃をもっている者が胃の存在を感じないように、幸福である者は幸福について考えないといわれるであろう。しかしながら今日の人間は果して幸福であるために幸福について考えないのであるか。むしろ我々の時代は人々に幸福について考える気力をさえ失わせてしまったほど不幸なのではあるまいか。幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのように感じられるほど今の世の中は不幸に充ちているのではあるまいか。(p.16)
この文章が書かれた当時(昭和初期)の人々がどのような幸福観を抱いていたのかは分からないけれども、三木の眼からすれば当時の人々は、幸福について考えないように見えていた(それが「真に」幸福を考える態度ではないと三木が判断したからかもしれないが)。しかし、それは必ずしも彼(女)らが幸福であるからではなく、幸福について考えることそれ自体を放棄させてしまうほど不幸であるからなのかもしれない。
幸福を知らない者に不幸の何であるかが理解されるであろうか。今日の人間もあらゆる場合にいわば本能的に幸福を求めているに相違ない。(p.16)
そういう観点からすれば、当時の人々も21世紀を生きる僕たちも、そう変わりないのかもしれない。時代に沿ってあらゆる社会制度は変わり、それに伴って人々の価値基準も変わる。しかし根源的なところでは、その時々の個々人にとっての幸福を追求するという本能的性格は変わらないのだろう。
死は観念である、と私は書いた。これに対して生は何であるか。生とは想像である、と私はいおうと思う。(中略)想像的なものは非現実的であるのではなく、却って現実的なものは想像的なものであるのである。現実は私のいう構想力(想像力)の論理*1に従っている。(中略)生が想像的なものであるという意味において幸福も想像的なものであるということができる。(p.19)※太字、下線はブログ著者による
「生とは想像的なものである」ゆえに「幸福とは想像的なものである」――
「想像的」という言葉には、ある種の曖昧さ、不確かさがつきまとうニュアンスがあるが、三木はそれこそが生の味わいを醸し出すスパイスとなると見ているのだろう。それゆえに、空虚な観念をこねくり回すよりも、想像的であることは却って現実的であるのかもしれない。
幸福はつねに外に現れる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である。(p.22)※太字はブログ著者による
「幸福は表現的なものである」――
とても印象的なフレーズだった。ただ頭の中でこねくり回して出来上がった理論としての幸福は、空虚なものである。運動し、活動し、想像的に創造するところから、あふれ出るものが幸福である。幸福は目に見える。実に表現的なしかたで、幸福はその姿を現す。
個性を理解しようと欲する者は無限のこころを知らねばならぬ。無限のこころを知ろうと思う者は愛のこころを知らねばならない。愛とは創造であり、創造とは対象に於て自己を見出すことである。愛する者は自己において自己を否定して対象に於て自己を生かす*2のである。(p.146)※下線はブログ著者による
23の小論それぞれに感銘を受けるところがあった。これらを一度にすべて消化することは、今の僕にはあまりに難しい。そのための経験がまだまだ足りないと突き付けられた。 事あるごと、人生の岐路に立ち会うたびに、本書を読み返したいと強く思った。
【積読リスト】読了数:9/127
*1:三木の未完の著書に『構想力の論理』がある。彼の思想の集大成はここにあったのかもしれない。参考:思想家紹介 三木清 « 京都大学大学院文学研究科・文学部
*2:E・フロム『愛するということ』にも、これに似た洞察があったなぁ
あふれんばかりのいとおしさを、愛すべきヘンタイたちに贈る/森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』
あふれんばかりにいとおしい。このひとことに尽きよう。
常人には理解しがたい変態的趣向。青春を棒に振ってやまない頽落的日々。「俺たちに明日はない」と自分に言い聞かせるように(本当は明日のことなんて考えたくないだけ)今のみを生き抜く。そんな京大生がほんとうに、いとおしい。
京大生の日常は一般人のそれからすれば非日常だと言われるかもしれない。たしかに、根っからの変人ばかりが跋扈する魔窟のような様相を呈するときもあれば、なんのことはない普通の大学生が普通に勉強して普通にバイトして普通にサークル活動して普通に就職活動してるじゃん、という印象も受ける。内部事情はだいたい、そんなところだ(基本的に大学に足を運んでいない僕が言うのもなんだが)。参考までに下の記事を挙げますが。
圧倒的自由!?京大生のすごすぎる「日常」10選 | SENSE KYOTO
そんな京大を舞台にした作品が面白くないわけない。少なくとも僕にとっては。
「人間として、力の入れどころを激しく間違っているよね」
世の大学生らしい恋もせず、勉学にもうだつの上がらない「私」の前に、僥倖とでも言うべき一筋の光明が差しこんだ。同じサークルの後輩である「彼女」への淡くも一途な恋心を胸に、物語は進展していく。
容姿端麗にして酒豪の歯科衛生士、羽貫(はぬき)さんをして「人間として、力の入れどころを激しく間違っているよね」と言わしめた「パンツ総番長」よろしく、僕に言わせれば本書の登場人物みんな、人間として力の入れどころを激しく間違っている人たちだ。羽貫さん、アンタもだ。主人公の「私」にしろ「彼女」にしろ、物語中で数々の暗躍を見せる「樋口さん」にしろ、木屋町先斗町界隈で裏世界の実権を握る「李白翁」にしろ、である。これら登場人物たちが繰り広げるドタバタ劇が、ほんとうにいとおしくてしゃーない。
ひとことで言ってしまえば、「どうでもいいこと」なのである。夜の木屋町でしこたま飲み比べをしたり、下鴨神社の古本市で古本市の神に化かされたり、秋の学園祭で偏屈王事件の謎を暴いたり、冬の京都で魔風邪恋風邪が大流行したり。カオスすぎて何が何だか分からなくなるが、その意味の分からなさ、転じて「どうでもええでっしゃろ」感が、いっそう物語に対する愛着を深めさせる。
まぁ、こうしたいとおしさを感じられるのも、僕が京都での生活を過ごしているからかもしれない。よく知る場所や行事、京大生の日常(虚実入り乱れるが)が、この作品をより深く味わわせるスパイスとなっているのを感じる。
もっと京都が好きになってしまったなぁ。はぁ。
【積読リスト】読了数:8/127
直球ド真ん中で「きょろきょろ」しよう!/内田樹『日本辺境論』
「きょろきょろ」
丸山真男は日本人の精神態度の基本的なパターンを、上の擬態語でもって言ってのけた。
他国との比較を通じてしか自国の何たるかを語れない。確固たる自国のアイデンティティを自らを根源として表明することができない。そのため、新しいものを外の世界に求め実際に多様な変化を遂げてきたが、その「きょろきょろ」してやまない態度だけは一向に変わらない。これが、その地政学的辺境性によって規定された日本人の思考と行動の様式を端的に表している。
こうした「日本文化論」の類は、書店に足を運べばいくらでも目にすることができる。そのひとつひとつの是非を問うというのは、ここではあまり大きな問題ではない。なぜかと言えば、この「日本って国って、一体なんなん?」とエンドレスで問い続けるその態度こそに、日本文化が存在するからである。ここではないどこかに、日本文化の祖形や原点があるわけではない。それをひたすらに問い続けるところにしか、日本文化は姿を現さない。
辺境人としての日本人
日本文化論を語るうえでの「辺境」というのは「中華」の対概念である。朝貢-冊封体制を基盤とする華夷秩序のなかにおいて、日本人の辺境人としてのメンタリティが醸成されてきた。
外の世界からものを取り入れながら、うまいことやってきたこの国は、「何に役立つのか分からないけどとりあえず摂取しておく」という(内田氏的に言えば)「本質的な学び」の方法を確立した。加えて、極意や悟りといったものを具体的な場所に措定せず、学びのプロセスの中でそれらを体得していく「道」というものを編み出したところに、日本の辺境性の独特さがあるだろう。
その反面、「私は辺境人であるがゆえに未熟であり、無知であり、それゆえ正しく導かれなければならない」という論理形式を手放せない(p.169)といった弱点も抱えることとなる。「私は辺境人であるがゆえに…」という自己規定から脱却できないために、我を棄てて未知の世界に飛び込むことができない。辺境人のメンタリティにはこうした一長一短がある。
辺境人は辺境人なりに、学ぶ
直球ド真ん中で「きょろきょろ」しよう!と言ってみるのは、辺境人的性格から醸成された「学ぶ力」を大切にしていきたいと思うからである。
外来の「大きな」世界観や思想、文化を取り入れることでしか、資源の乏しい島国の発展はありえなかった。そうした地政学的辺境性のおかげで、日本人は「学ぶ」ことに関しては非常に大きな成果を残してきた。
それがいまや学びの選択は、「この学びによって得られる報酬とそれに支払う努力とを比較考量して、経済的に適当なコストであれば学ぼう。そうでなければ学ばない。」という経済の論理に委ねられるようになった。本来、学んだことが役に立つかどうかなど学ぶ以前の人間には分かるはずもないのに、ハナから学びを放棄してしまう。このような現代における学び方の問題に対し、辺境人的学びの態度は生かされる可能性を秘めている。そう思うのだ。
【積読リスト】読了数:7/127
「生きる意味」と「死への覚悟」/内田樹『街場の現代思想』
当方、現代思想について知っていることもとくになければ、本書を読んでそのエッセンスを余すところなく吸収できたと言えるわけでもない。ただ、言ってることはなんとなく分かる(気にさせる)ように書くのが上手いというか、そこが好きでもありニクいところでもある。そんな内田氏の筆致。
「現代思想の何たるか!」とか、そういうことはとくに述べられていなかった(ように思う)。現代の日本社会に生きる、僕みたいなごくごく普通の人間が抱えることになるお悩み(階層社会、お金、転職、フリーター、結婚・離婚、大学などなど)を、おなじみのウチダ節でスッキリ解説、的な、ね。
今回はその中でもとりわけ印象深かったことについて。
「バカラのグラス」と「生きる意味」
バカラのグラスはとっても薄い。ゆえに、ぞんざいに扱えばすぐに割れてしまう。だからこそ、たいせつにしようと思う。そこに、価値がある。
人の命も同じことである。諸行無常、盛者必衰。古来、人間はその生の儚さを嘆いてきた。それでも、生きてきた。どうしようもなく脆いんだよ?この上なく儚いんだよ?けど、それでも、生きてきたのだ。
じゃあもしかしたらそこに「生きる意味」もあるんじゃないのか(ひとつ前の記事:〈子ども〉になれない僕(ら)の強がりをひとつ聞いてくれ - 積読本を"昇華"させる日々を綴るブログと化した「日々是好日。」で「生きる意味なんていらんわ!」とか言っておきながらアレだけど)。
無常観のDNAなるものは、日本人に受け継がれているのかもしれない。花見は散りゆく桜を見るのが、花火は暗闇の空に散り散りに消えてゆくさまが「あはれ」なのだし。近現代のテクノロジーの発展がそうした情趣に対する感受性を損ないやしないか?という記事(カメラのファインダー越しじゃ見えない世界があると思う。 - 積読本を"昇華"させる日々を綴るブログと化した「日々是好日。」)も以前書いたことがあったが、まぁいい。そういう儚さが「あはれ」だなぁという感覚は、僕らの心を潤すものとして、おそらくいつまでもありつづけるんじゃないかな。
そしてこれは、日本人だけに特別なものでもなさそうだ。形をかえて、全人類にそれぞれの「あはれ」を感じる能力は存在しているのだろう。
およそ私たちが「価値あり」とするすべてのものは、それを失いつつあるときに、まさにそれが「失われつつある」がゆえに無常の愉悦をもたらすように構造化されている。(中略)私たちがおのれの「生命」をいとおしむのは、それがこの瞬間も一秒一秒失われていることを私たちが熟知しているからである。(p.230)
へぇ。じゃあどうして、 私たちは「失われつつある」ものに対していとおしみを感じるようになっているのか。バカラのグラスで例えてみてよ。
「まだ割れないグラス」については、それが手から滑り落ちて床に砕け散り、それが「もう割れてしまったグラス」になった瞬間に私が感じるであろう喪失感と失望を私が想像的に「先取り」しているからである。(中略)私たちが「価値あり」と思っているものの「価値」は、それら個々の事物に内在するのではなく、それが失われたとき私たちが経験するであろう未来の喪失感によって担保されているのである。(pp.231-232)
つまり、実は私たちはある事物の価値を〈いま・ここ〉の基準で測っているのではなく、本質的には、それが失われるであろう未来の状況を「先取り」したところに価値を見出しているというのだ。これは個人的にはなかなかの気づきだった。〈いま・ここ〉で生きることを重要視するのは、それが失われゆく過程に価値を見出しているからなのだ。
ということは先述の問題に戻ると、「生きる意味」が欲しいのならば、「死ぬことの意味」についてありありと想像を働かせ、死に直面した自分を「先取り」しなければならない。
今の時代がしんどいのは、若い人たちに「未来がない」からである。もっとはっきり言えば、若い人たちが「死んだ後の自分」というものを自分自身の現在の意味を知るための想像上の観測点として思い描く習慣を失ってしまったからである。(p.238)
普通に暮らしていさえすれば、ふとしたときに命を落とすなんて危険もないほど安全なこの国で、常に想像力豊かに「死」を考えることは、困難な課題かもしれない。戦時中、僕と同年齢の若者が死に際に残していった「わだつみのこえ」と同じものを、今できるかといえば、できない。
「自分がどういうふうに老い、どういうふうに病み衰え、どんな場所で、どんな死にざまを示すことになるのか、それについて繰り返し想像すること」(p.239)を厭わず、素直に向き合うこと。まずはそこからやってみようと思う。
【積読リスト】読了数:6/127
〈子ども〉になれない僕(ら)の強がりをひとつ聞いてくれ
小学5年生の男たち(アホの集まり)には「ベリーメロン」くらいが面白いほどハマったものだった。
〈子ども〉の哲学
「ベリーメロン」くらいで心底笑えていた当時の僕は、「哲学」の「て」の字も知らなかった。
しかしながら、〈哲学〉については、自らの全存在を懸けてぶつかっていたのかもしれない。もう覚えてないけど。
ソクラテス、プラトン、デカルト、カント、ハイデガー、ヴィトゲンシュタイン――以降、綿々と続く西洋哲学史上の言説・思想を学び、理解する。これが一般的な「哲学」に対するイメージかと思う。
しかしながら永井氏が追究するのは、こうした「哲学」ではない。
彼が問題にするのは、この世界の成り立ちや前提に対して根本からの疑問を提起する、〈子ども〉の抱える問いである。
〈子ども〉であるかどうかに、年齢は関係ない。人間存在、世界の成り立ちの根本に疑問を抱く姿勢こそが、〈子ども〉であることの条件だ。
〈子ども〉の問い。これを〈哲学〉と呼ぼう。
「なぜぼくは存在するのか」「なぜ悪いことはしてはいけないのか」「なぜ人を殺してはいけないのか」
こうした問いに、大人は答えることができない。
それら〈子ども〉の問いは、大人たちがこれまで騙し騙しやりながら上手いこと回ってきたこの世界の前提を覆してしまうからだ。
〈子ども〉は大人にとって脅威である。ゆえに大人は、子どもがこの世界の前提のおかしさに気づかないよう育て上げる。その結果、ソクラテスが言うところの「無知の知」に気づかない子どもたちが、大人になっていって、またその子どもたちは同じように大人になっていって、、、いまがあるわけだ。
〈子ども〉の哲学と、僕の「生」
僕はまだハタチのぺーぺーで、法律上では大人だけど社会的に見れば子どもなんかもしれない。
でも、〈哲学〉をする者の視点からすれば(永井氏から見れば)、いまの僕は〈子ども〉ではない。大人のつくった世界の構造に取り込まれ、その中でしかものを考えられなくなってしまった、青年である。
青年の哲学の根本課題は、人生である。つまり、生き方の問題だ。いかに生きるべきか――このひとことに青年の問いは要約される。(中略)青年は、現実を越えた別の価値を求めるが、価値を求めるというそのこと自体を、問題にすることはできない。青年とは大人の予備軍であり、その超越性とラディカリズムは、見せかけのものにすぎない。(p.24)
ああ。なんか、言われるがままだ。
そう僕は、いろんなかたちを取れども、「いかに生きるべきか」ということでずーっと考えている。
ただそれは、「いまここにある、この〈ぼく〉」を抜きにしてしまっている。根本的な意味で。
そのような思索には、現実がすっかり抜け落ちている。空虚な価値を追い求めるところに〈哲学〉はない。〈哲学〉のないところで生きていても、え、それって意味あるの・・・
こらこら。また悪い癖が顔をだす。生きることに意味なんて求めてんじゃないよ。
永井氏のいう〈哲学〉は永井氏にとっての〈哲学〉であって、僕には僕にとっての〈哲学〉がある、はずだ。誰しもに考え抜きたいことがあってよいのだ。なくても、よいのだ。
ただ、各々にとっての〈哲学〉の対象があるとするならば、それをとことん追究していくところに、その人の「生」があるのだろう、ってことだ。そこに意味なんて付与できるだろうか。ただ、そういう「生」がある、ということ。それだけでいいんじゃないか。意味が欲しかったら、自分だけの意味を見出せばいいのだ。他人に、社会に、世界に、意味なんて見出してもらわなくてもいいのだ。この〈ぼく〉の「生」は、そのまま、〈ぼく〉だけのものなのだから。
最後のページをぱたんと閉じた。
〈子ども〉になれない僕の強がりだけが、ひとつ、そこにはあった。